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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
画/新道武司
協力・資料提供/深川江戸資料館
第3回 「煮売り屋」は、江戸っ子のファミリーレストラン。
煮売り酒屋
『煮売り酒屋』
(中央の男性が左手にさげているものが『ちろり』)

 外食産業のはしりは、江戸の町にあったと言っていいだろう。食べ物屋のような形態の店ができ始めて、いろいろなタイプの店が増えていく。享保年間(1716〜1736)には、庶民も外食を楽しめるようになったようだ。将軍吉宗の時代である。もちろん、うどんやそばは、もっと早い時代からあった。

 30年後の宝暦年間(1751〜1764)には、「煮売り屋」や「煮売り酒屋」が登場。当時のメニューには、おすいもの、煮さかな、さしみ、なべやき…と、いろいろ豊富だ。その他に、たけのこめし、おでん、てんぷら、握りずし、うなぎの蒲焼きなどが、庶民の外食だった。「一膳飯屋」や「お茶漬け屋」、「どじょう汁屋」も登場して外食産業は、ますます活況を呈してくる。これらは、大衆酒場的な店でもあり、食べたり、飲んだり、煙管(きせる)でたばこを楽しんだり、けっこう気楽な場所のようだ。
 お酒は当時、一般的に燗で飲まれた。『ちろり』で温めて杯に注ぐ。お茶を飲むときの急須を深くしたような容器だ。もちろん、お銚子も広く使われていた。

右上に続く >

 ファミレスと文頭に書いてしまったが、多くの資料で煮売り酒屋の挿絵を眺めてみたところ、家族揃って食事をしている絵が見当たらない。圧倒的に男の客が多い。男女のカップルもあれば、合コン風景のようなものもある。しかし、子どもが描かれていない。なぜだろう? 金銭的にもそう負担ではない庶民の外食、筆者なら家族で行きたいところだが…。きっと、江戸時代の家族の関係と現代とでは、だいぶ違っているのだろう。
 それだけでなく、江戸の町の構成員を考えたならば、大きな理由に気づく。やはり、男が多く男社会だったからだ。地方からの単身赴任の武士をはじめ、労働者も地方からやってくる。単身者の人口が増えるということは、外食需要も増える。そして、一大市場が形成されていく。

 高級料亭ももちろんあった。広重にも描かれた『八百善』は特に有名で、大商人や文人墨客たちの社交の場だ。残念ながら、一般庶民には無縁の場所であったことは言うまでもない。
 最後に、今でも食べられる庶民の味を紹介しておこう。『深川めし』だ。味は濃いが、これが実にうまい。アサリのむき身、ネギ、油揚げなどを味噌で煮て、炊きたてのごはんに混ぜた料理である。当時は江戸前のアサリがたくさんとれた。もともとは、江戸っ子らしい気ぜわしい食べ方で、これが流行っていたらしい。深川に行けば食べられる店が数店ある。読者も一度お試しあれ。  

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
にはち、じゅうろく、にはち蕎麦。
二八そば 屋台
二八そば 屋台
 九九の練習ではない。そばはなぜ二八そばなのか、という話である。今でもおそば屋さんのメニューに「二八そば」とあったり、店名にこれを使っているケースもあり、二八そばの名前は、江戸時代からずっと生きている。
 理由はいたって簡単で、庶民の食べ物であるそばの料金が一杯16文であったことによる。二×八=十六というしゃれである。
 こう書くと、小麦粉2、そば粉8の割合で作ったからだという人が出てくるが、夢のない話だ。まずそうなそばに聞こえてくるではないか。「にはちそば」とか「にっぱちそば」という響きのなかに、江戸があり、江戸っ子気質を感じるのである。屋台で江戸っ子は、4文銭を4枚払って、このそばを威勢よくすすっていたはずだ。
 16文という値段は、寛文年間(1661〜1673)に決まり、幕末まで200年間変わらなかった。ここからも、やっぱり、にはち、じゅうろく、にはち蕎麦が定着したのだ。
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