Home > 江戸散策 > 第22回
江戸散策
江戸散策TOP
前回のページへBACK
次回のページへNEXT
江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第22回 ひな祭りには、なぜ白酒を飲むのだろう。
江戸名所図会
『江戸名所図会』
鎌倉町豊島屋酒店(奥には白酒の大樽、通りには空いた手桶が積まれている)

一月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午(たんご)、七月七日の七夕(たなばた)、九月九日の重陽(ちょうよう)は、五節句と呼ばれている。七草の節句、桃の節句、端午の節句などとの呼び方もある。これは江戸幕府が音頭をとった国民のイベントのような性格のものだった。年に5回やってくるこの行事を江戸の庶民は受け入れ、祈ったり、厄除けをしたり、感謝したり…そして、お酒を飲み大いに楽しんだようである。明治政府による太陽暦の採用に伴って五節句は廃止されたが、ご存じの通り、今でもそのほとんどは受け継がれている。

今も三月三日の桃の節句に欠かせないもののひとつに「白酒」がある。これは江戸時代に広まったことだ。『江戸名所図会』にも「鎌倉町豊島屋酒店 白酒を商ふ図」として紹介されている。「例年二月の末 鎌倉町豊島屋の酒店においてひな祭りの白酒を商ふ これを求めんとて遠近の輩黎明より肆前(しせん)に市をなして賑はへり」と続き、繁盛の様子がうかがわれる。この時季になると、遠くの者も近くの者も、夜明けから人々が店の前まで行列をなして白酒を買いに来たということらしい。一般庶民が気軽に買える位の値段だったのだろう。しかしまた、何と人の多いことか。半日で白酒を一千石(一升瓶で十万本相当)売ったと言われているが、話半分としてもこれはすごい。

この図会を眺めていると面白いことに気づく。中央の立看板には「酒醤油相休申候」(さけしょうゆあいやすみもうしそうろう)とあり、いつもの酒や醤油は販売を止め、白酒の販売に専念したということだ。しかも、入口に櫓(やぐら)を建てて、その上では鳶(とび)が店先の客を整理している。現在で言えば、野球の優勝セールやバーゲンセールに殺到する人を整理するガードマンの役目。江戸時代は威勢のいい鳶が担当した。混雑すれば怪我人も出るということで、医者も待機していたというから、店側も準備がいい。それほど人が出たということだろう。実際この図会の所収されている『江戸名所図会』の中でも、人の多さは際立っている。

豊島屋は慶長年間(1596~1615)創業の酒屋だった。伝説によれば、初代の十右衛門(じゅうえもん)は、夢枕に立ったおひな様から白酒のおいしい作り方を伝授された。その通りに作って、ひな祭用に販売したら江戸中の大評判となったということだ。多くの人々に飲まれ、徳川将軍も飲んだという白酒は以来、おひな様にお供えするお酒としての地位を確立した。江戸の名物となり、ひな祭りに白酒を飲む風習は江戸から全国に広がったのである。

現代の白酒
ちょっと江戸知識 コラム江戸
現代の白酒(豊島屋)
今でも江戸時代の白酒が飲める?

白酒は、いつ頃から飲まれていたのだろうか。室町時代にはもう飲まれていたようだ。しかし、現在のような白酒は、江戸初期の豊島屋十右衛門の製法開発を待たなければならない。白酒という呼び方自体漠然としているが、もともとは、にごり酒の一種であり、古来からある「どぶろく」のようなお酒だったのではないだろうか。

江戸時代、「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と一世を風靡した白酒は、驚くことなかれ、現在も飲むことができる。豊島屋は今も伝統を守り続けて白酒を販売している。お話をお聞きすると、製法は江戸時代とほとんど変わっていないとのこと。味醂(みりん)にもち米を仕込み、2カ月以上寝かせてから、白酒のもろみを石臼で時間をかけ擦りつぶしていくという古風な製法で今も作っている。白酒に興味のある方は、これを一度飲んでみるのも面白いだろう。

豊島屋本店/千代田区猿楽町1-5-1 tel.03-3293-9111

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館/豊島屋本店
BACK 江戸散策TOP NEXT
page top