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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第25回 江戸の三大娯楽、相撲、歌舞伎に吉原遊郭。
番付 (天保10年 板元/神田金沢町 三河屋治右衛門・鉄治郎)
番付 (天保10年 板元/神田金沢町 三河屋治右衛門・鉄治郎)
番付 (天保10年 板元/神田金沢町 三河屋治右衛門・鉄治郎)
番付 (天保10年 板元/神田金沢町 三河屋治右衛門・鉄治郎)

江戸の三大娯楽はこれが通説となっている。しかし、庶民クラスがそう頻繁に楽しめたかというと、そんなことはない。相撲はまだしも、歌舞伎や吉原などはやはり高額な娯楽だ。実際には、投げ銭程度で楽しめる辻相撲や気軽な芝居小屋、吉原以外の岡場所(幕府公認でない遊郭)だったと推測される。

それはそれとしても、相撲の人気はすごく、江戸市民は熱狂した。上位力士はそれこそスーパースター。「一年を二十日で暮らすいい男」なのである(川柳/10日間×春秋2場所)。

江戸後期、天保10年(1839)の番付を見てみよう。稲妻雷五郎(いなづまらいごろう)は、現代にも名を知られる130勝13敗の名力士である。四股名 (しこな)の上に大関とあるのは、当時は大関がナンバーワンだったのだ。横綱は番付上の最高位ではなく、相撲の家元とされる肥後の吉田家が与えた免許にすぎなかった。現代のような意味で横綱という呼称になったのは明治以降である。稲妻雷五郎も文政12年(1829)に第7代横綱免許を受けているが、江戸時代を通して番付に横綱という文字は見当たらない。

大書きされた「蒙御免」は「ごめんこうむる」と読む。幕府公認の相撲興行という意味である。なぜ相撲に許可が必要になったかというと、江戸市中では方々で相撲が行われていて、勝ち負けのケンカが絶えなかった。お金がかかっているとしたら容易に想像できる。相撲禁止令も出したが効果もいまひとつだった。そこで、勧進相撲(かんじんずもう)というかたちで寺社奉行所の許可制になった。寄進をすすめ、寺社建立や橋架の費用捻出するのが本来の目的である。

「蒙御免」の文字の下には、「11月5日より本所の回向院(えこういん)境内で晴天の10日間、勧進大相撲興業をします」という意味のメッセージが添えられている。勧進相撲は、江戸では富岡八幡宮、浅草大護院(蔵前神社)、芝神明など、寺社奉行所管轄である寺社の境内で行われたが、後に本所回向院に集中し、天保年間(1830〜1844)には、この番付にあるように本所回向院に定まった。そして明治43年(1910)、両国国技館が完成するまで続いたのである。

相撲は古代から行われてきた神事であったことが興味深い。朝廷の行事にも節会相撲(せちえずもう)があったし、神社での奉納相撲は現代にも引きつがれている。これらは五穀豊穣を祈る儀式だった。現代の相撲でも、力士が懸賞金を受け取るときの礼儀として、3回手刀(てがたな)を切るのは、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の日本神話の根元神に感謝していただくという意味がある。

雷電の手形(東京都港区赤坂7-6-20 報土寺)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
雷電の手形(東京都港区赤坂7-6-20 報土寺)
江戸時代、最強の力士は誰だろう。

そう聞かれたら、筆者なら迷わず「雷電為右衛門(らいでんためえもん)」と答える。勝率が抜き出ている。254勝10敗(一説に250勝10敗)、相撲史上最高の勝率9割6分2厘を誇る江戸中期の強豪力士だ。33場所、17年間、西大関(当時の最高位)を張ったという。

雷電(1767〜1825)は、信州(長野県)の出身。生家近くの碑文によると、「年十八九伸長六尺五寸」、18〜9歳で約197cmの身長があった。体重は49貫600匁(約169kg)。雷電の手形を実際に測ってみたら、手首から指の先まで約24cmもあった。当時の力士の中でもその体格は、他を圧していただろう。温厚な面立ちで孝心厚く、性格は義理がたかったと伝えられている。

そして、あまりにも強くて勝負が面白くないため、雷電だけは「張り手、鉄砲、閂(かんぬき)」を禁じ手とされたという、本当か嘘か信じられないような話も残っている。手形のある報土寺には雷電の墓もある。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館、報土寺
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