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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
コラム江戸
第34回 雛祭りが広まり、定着したのは江戸時代。
『江戸名所図会』十軒店雛市 (内裏雛 人形天皇の 御宇とかや 芭蕉)
『江戸名所図会』十軒店雛市 (内裏雛 人形天皇の 御宇とかや 芭蕉)

雛祭りという風習が一般庶民に浸透したのは、江戸中期以降である。十軒店雛市(じっけんだなひないち)と題されたこの店先の様子は、江戸後期の天保年間(1830〜1844)の頃のものだ。
十軒店というのは地名で、現在の日本橋室町三丁目辺りを指す。今も「十軒店跡」と呼ばれるこの地には、人形を扱う店がいくつか残っている。十軒店というくらいで、当時は人形を売るお店がたくさん軒を並べていたのだろう。江戸のあちこちで雛市が立った。もっとも有名だったのは、この日本橋十軒店の雛市で、その他にも人形町や尾張町、池之端、浅草茅町などが知られていた。

奧側に描かれているのが、雛人形の大店の様子。かなり立派な雛人形がずらりと陳列されている。手前の小屋のような店(この場所は路上で、この季節だけの簡易的な店舗か?)では、雪洞(ぼんぼり)や屏風、白酒を入れる酒瓶や飾り物などを販売している。
注目したいのは、この時代既に現在の雛祭りの原形が出来上がっていることである。豪華なお雛様は何も今始まったことではない。筆者などは現在の美しい雛人形を見て、日本の伝統や技術はすごいなぁ、なんて感心しがらも、その値段にはビックリしてしまうのだが、江戸時代からその傾向はあった。お雛様はだんだん華美になり大型化すると同時に、絢爛豪華な人形になっていった。金箔を使ったものも登場したという。それを見かねた幕府は、奢侈(しゃし)禁止令を出すほどエスカレートしていったようである。
その背景には、立派な人形を作る人形師の技術力も当然あるが、消費を支える裕福な商人たちがいたことがあげられる。
ここに描かれているような高価な雛人形は、一般庶民が買えるような代物ではなかった。庶民は、もっと小さくて素朴な雛人形や、折り紙で作った紙人形などで楽しんだのだった。したがって、十軒店には、庶民対象のお店も数多くあったと思われる。

三月三日の雛祭りは「上巳の節句」「桃の節句」とも呼ばれる。古代中国では、三月の最初の巳(み)の日を上巳(じょうし)と言い、この日に人形、つまり人の形に切った紙(形代・かたしろ)で体を拭い、それを川に流して穢(けが)れを祓ったという。それが日本に伝えられ変化したというのが定説である。いずれにしても室町時代には、公家や武家の間でお雛様が広まり、江戸時代には広く一般に定着したのではないだろうか。
そういえば、「お内裏さま」とは天皇と皇后の意味である。江戸時代は絶対権力者、徳川の治世。武士にも町民にも「徳川将軍雛」なるものを推奨しなかったのはなぜだろう。天皇家といい関係を保っていたからか、心が広かったのか。ちょっと不思議にも思える。

関連項目

江戸散策 第22回
長屋の雛飾り(向かって右側に男雛、左側に女雛を置いた)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
長屋の雛飾り(向かって右側に男雛、左側に女雛を置いた)
菱餅は、緑と白の二色だった。

この写真は長屋の雛飾りを再現したものである。部屋の住人は、三味線のお師匠さん(36歳)という設定。内裏雛の他に五人囃子の人形もあって、長屋暮らしとしては経済的に恵まれている環境だ。
菱餅はその形からだけでなく、池や川に自生する「菱」という名前の植物を材料にするから菱餅と呼ぶらしい。本物の菱は見たことはないが、葉は菱形(三角形)、実は堅く繁殖力の強い薬草でもあった。子孫繁栄と身持ちが堅いという意味なのだろう。緑色の餅にするためには、「よもぎ」を用いた。白い餅と重ねて二色というわけだ。赤い餅が入るようになったのは明治になってからである。
江戸時代は、男雛と女雛の位置関係が現在と違っていた。昔は、向かって右側の上手(かみて)の方が、左側の下手(しもて)より上席であったためだ。大正時代、天皇、皇后が式典の際、西洋式に並び方を替えたことを機に、お雛様も位置を替えて飾ったという説が有力である。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
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