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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第41回 小名木川五本松の月見は、風流の極地。
『江戸名所図会』小名木川 五本松(丹波国の大名、九鬼家の下屋敷から松が伸びていた)
『江戸名所図会』小名木川 五本松(丹波国の大名、九鬼家の下屋敷から松が伸びていた)

お月見を最近の日本人はあまりやらなくなったようだ。「あれを食べに行こう」とか「どこそこへ行こう」とかいう誘いはあっても、「月見に行こう」などという話は聞いたことがない。そこで、この素晴らしい日本の伝統的習慣、お月見に目を向けてみよう。
月見のハイライトは、何といっても満月や中秋の名月(十五夜)だ。西洋では、満月の夜になるとオオカミ男が出現したり、ドラキュラ伯爵が闊歩したりと物騒だが、わが国のお月様はウサギが住んでいたり、かぐや姫の故郷であったりして、まことに優雅な世界である。

月見は中国から伝わった風習といわれ、奈良・平安の宮廷行事でもあったようだ。社会が安定した江戸時代には、広く庶民に楽しまれるようになり、江戸には月見の名所がいくつもあった。地理的に比較的高い場所である「湯島天神」や「九段坂の上」。「愛宕(あたご)山」や浅草の「待乳(まつち)山」、日暮里の「諏方(すわ)神社」などの高台。海辺では「芝浦」「品川」、それに「隅田川」「不忍池(しのばずのいけ)」などがあげられる。
水辺はとくに人気があり、直接月を眺めるだけではなく水面に映った揺れる月を観賞する、これが通人に好まれた。日本人特有の感性、美の世界だ。夕方、川に船を漕ぎ出て祝宴をはりながらの談笑すると昼とも夜ともいえない時間帯がやって来るちょうど西に太陽が沈む頃、東の空からいよいよ中秋の名月が登場する酒を酌み交わしながら一句ひねる者、歌を詠む者、天気さえ良ければ名月を愛(め)でる時間はたっぷりある。頬に気持ち良い川風を感じながらゆっくり船は進んでいく。月見にこそ、日本の美意識が集約されていると思えてならない。

「小名木川五本松」という場所は、江戸を代表する月見のスポットの一つである。この図会が描かれた当時、五本あった松はすでに一本になっていたが、枝振りが川面まで伸びていてみごとな景観であったために月見と一体化して有名になった。この松も明治時代に枯れて、現在は「五本松跡」の石碑が残っているだけだ。小名木川は現在もあるが、もともと下総(しもうさ)方面から隅田川へ抜ける運河で、行徳の塩を江戸へ運ぶために開削した水路である。
松尾芭蕉も「小名木川五本松」で月見を楽しんだ。図会には次の句が添えられている。『深川の末 五本松といふ所に船をさして 川上と この川下や 月の友』。 川上にいる友も川下にいる自分が今見ている月をきっと眺めているだろうという意味だが、月の友は親交の深かった俳人、『目に青葉 山ほととぎす 初鰹』の句で有名な山口素堂だという。2006年の中秋の名月(十五夜)は10月6日、現代人も月見を楽しめるくらいの時間と心の余裕はもっていたい。

長屋の月見の供物 再現(深川江戸資料館)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
長屋の月見の供物 再現(深川江戸資料館)
月見団子は、驚くほど大きかった。

十五夜のお供え物として最初に頭に浮かぶのは月見団子だ。イメージとだいぶ違うのはその大きさである。江戸時代はテニスボールほどもある大きさの団子15個を三方(さんぽう/三宝とも書く)に積み上げていた。
秋の七草の一つであるススキは、江戸の暮らしのなかでワラのようにさまざまに利用できる資源であったばかりか、霊力があるとされる植物だった。ススキを飾るのは、正月の門松が歳神様の依代(よりしろ)であるように、収穫期にはススキに神が宿ると考えたのだろうか。
その他に重要なお供え物(あるいはもっとも重要なお供え物)は、里芋だった。里芋は日本人が米を主食とする前まで主食の座にあった食物である。昔から「里芋は十五夜まで育つ」と言われ、収穫した里芋は名月へのお供え物としてふさわしかった。十五夜は別名「芋名月」という。月見のお供え物は、形として十五夜の月に向けたものだが、秋の収穫祭としての行事だったのである。

文 江戸散策家/高橋達郎
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