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文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第50回 江戸には、富士山がいっぱいあった!?
『江戸名所百景 目黒新富士』広重 (人が登っているのが富士塚)出典:国立国会図書館貴重書画データベース
『江戸名所百景 目黒新富士』広重 (人が登っているのが富士塚)出典:国立国会図書館貴重書画データベース

初夢で縁起が良いとされる、「一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)」という言葉があるように、富士山は古来日本人の自然信仰の対象となってきた。山、川、海、太陽、月などの自然を恐れながらも、ありがたいものだと思う気持ちは、江戸の人々も変わりない。信仰や宗教という前に、日本一の富士山に登ってみたいという人間の衝動は自然の成り行きである。

江戸時代の富士山のキーワードは「富士講(ふじこう)」と「富士塚(ふじづか)」である。講とは信仰グループのことで、富士講は富士信仰の組織で「富士山へ登る会」といったところ。講にもいろいろあり、他に伊勢講、大山講なども知られている。富士講は江戸後期には、「八百八講」といわれるほどに講数が増えて人気があった。
富士塚というのは、いわばミニチュア版の人造富士山である。江戸には大小いくつもの富士塚が造られた。実際の富士登山は健脚な男子であっても相当の困難を覚悟しなければならない。富士塚があれば、老若男女が気軽に登山できるようになる。富士塚に登ることで富士山に登ったことにしたのだ。これは何とまぁ、都合の良い考え方だろうか。江戸の人々の合理的な感性に敬服してしまう。

ことのきっかけは、伊藤伊兵衛(いとういへい)なる人物が富士山で食行入定(じきぎょうにゅうじょう)したことによる。食行とは断食の修行、その結果、悟りを開いて息を引き取ったということである。享保18年(1733)、伊兵衛は60歳を過ぎていた。若いうちから富士浅間神社を信仰していた彼は、そのときすでに江戸に多くの門人を抱え、一派をなしていたようである。この食行入定は、江戸庶民の心をとらえ、彼を食行弥勒(じきぎょうみろく)、あるいは弥勒と呼ぶほどになって後世に影響を及ぼすことになる。弥勒というのは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)になぞらえたわけだ。
江戸中期以降、富士詣(もう)では大流行することになるのだが、そこには弥勒の教えに人々が共感できた時代背景がある。その教えを簡単にいえば、身分や性による差別を否定し、霊峰富士に登れば救われるという庶民に分かりやすいものだった。享保という時代は活気に満ちた元禄のバブルがはじけた後、十数年を経過しているものの閉塞感に満ちた時代である。吉宗の改革は人々に質素倹約を課し、さまざまな経済活動に規制をしいた。うっ積した庶民感情のはけ口のひとつになったのが富士信仰であってもおかしくない。富士信仰はブームとなり、富士講という組織が次々に形成され、教義はともかくレジャー的要素も加わって、江戸中に浸透していったのである。今も富士講は存在している。7月1日 (旧暦では6月1日) の山開きには、富士山や富士塚に参詣している。

下谷坂本富士(台東区下谷2-13-14) 高さ約5メートル
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下谷坂本富士(台東区下谷2-13-14) 高さ約5メートル
今も登れる富士塚。下谷坂本富士

現在も富士塚は東京の各所に残ってはいるが、その形状をとどめていないものがほとんどである。もともと岩石や土砂を積み上げた山だったから、それも無理はない。この小野照崎神社にある富士塚は、下谷坂本富士と呼ばれ、富士塚の原型が良く保存されている。その岩山は、富士山の溶岩を船積みして運んだものだ。隅田川からは荷車で陸送し、天明2年(1782) にここに築山された。
この神社と富士信仰は直接関係があるわけではない。小野照崎神社の祭神は小野篁(おののたかむら)。平安時代の歌人、小野小町の父あるいは祖父と伝えられる人物で、富士信仰にはつながっていない。当時は富士塚を造る際、富士浅間神社の祭神を勧請(かんじょう)する形をとった。神社はもちろん、寺でさえそうしたのである。人々の信仰に対する許容範囲は実に広かったのだと思う。
今もこの富士塚は、お山開きの6月30日と7月1日の両日一般に開放され、登ることができる。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/小野照崎神社
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