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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第51回 年に一度、江戸中の井戸をお掃除する。
『絵本世都濃登記』安永4年(1775) 井戸浚い (木に滑車をつけて井戸水を汲みだしている様子)
『絵本世都濃登記』安永4年(1775) 井戸浚い (木に滑車をつけて井戸水を汲みだしている様子)

「井戸浚 (いどさら)い」を知っている人はどれだけいるだろう。井戸浚いとは井戸の清掃で、井戸の水をできるだけ汲み出した後に落下物を取り出し、井戸の内側を洗う作業である。井戸の中に入るのは危険な作業でもあることから、井戸浚いの職人も存在した。井戸に生活用水を頼っていたのはそれほど遠い昔の話ではない。いわゆる近代水道の施設が完成して給水が開始されたのは明治32年、それも東京市の一地域においてである。その後、大正昭和とかけて水道施設は拡充され整備されてきた。その一方で掘削技術も向上した結果、井戸も掘られてきたのである。それらの井戸は水道の普及や開発により今ではほとんど見ることはできないが、使っていた頃は年に一回は井戸浚いをしていたはずである。

江戸の井戸はほとんどが共同井戸、その恩恵に預かる関係者が協力して井戸浚いをする。旧暦の7月7日(新暦8月中旬頃)を井戸の大掃除の日と決め、年に一度の夏の行事でもあった。七夕の日には、竹を飾る前に重要な行事を終えなくてはならなかったのだ。
この図会は「井戸浚い」の様子。井戸の蓋をはずし、大きめの桶で中の水を全部汲み出そうとしているところだ。重い水を能率良く汲み出すために滑車も用いた。おおかた汲み出したところで、今度は井戸職人が中に入って落ち葉などの落下物を拾ったり洗ったりする。この井戸浚いは江戸中で一斉に行われた。なぜなら、地下に上水道を引いて給水している井戸なら水源はみなつながっているため、一斉に清掃しなくては意味がないからである。暑い盛りに清潔な水を飲むために、みんながおいしい水を飲むために、その井戸に毎日お世話になっている住民は一致協力して井戸浚いをした。なぜこの日なのか、それは七夕本来の意味が、数日後にやってくる盂蘭盆(うらぼん)に向けての祓(はら)いの儀式でもあったからだ。井戸浚いはたいせつな水を清める儀式とみることができる。現実的には、伝染病を恐れた人々は飲み水には特に注意をはらい、雑菌が繁殖するこの季節を選んだのだろうと思える。

江戸市中の井戸がつながっているというのは、神田上水や玉川上水が地下に引き込まれていたからである。まるで道路を掘り返して水道管やガス管を地中に埋めるような作業を広範囲に施したのである。ただ管は鉄製ではなく木や竹をつなげたものだった。場合によっては石も利用する。地下に張り巡らされたいわゆる水道管の先には、いくつもの大きな桶が設置されていて、そこに水が溜まる仕組みになっている。江戸の人々は、この桶に溜まった水を地上から汲み上げて使ったのである。この井戸を上水井戸(じょうすいいど)といった。見た目は普通の井戸と変わらないが、井戸の底には桶が入っていて、地下水ではなく上水が遠くからそこまで給水されているそんな技術が当時あったというのだから驚くほかない。

長屋の共同井戸 復元 深川江戸資料館
ちょっと江戸知識 コラム江戸
長屋の共同井戸 復元 深川江戸資料館
井戸端は、おしゃべりと生活の場。

井戸端会議というのは、きっとこんな所でやるのだろうと思える井戸である。長屋の住民はこの井戸の周りで朝は顔を洗ったり、洗濯をしたり、野菜を洗って料理の下ごしらえをしたのだろう。井戸の周りの囲いは共同の大きなシンクのようでもある。この深川地域の井戸は上水井戸ではなく掘り抜き井戸だった(本所上水が引かれた時期もある)。海が近いため井戸水は塩辛かった。それでも飲料水以外なら使い道はいろいろあったのだ。
神田上水や玉川上水は、江戸全域に行き渡っていたわけではない。上水の恩恵を受けられなかった地域もある。それは地理的な要因で当時は自然流下式、つまり上水を江戸に引き入れた取水口より高い場所には給水ができなかったためだ。隅田川を渡すこともできなかった。
上水の届かない本所や深川地域には、上水の「余り水」を水船業者が水船(みずぶね)に積んで運んだ。住民は水屋といわれる商人から飲料水を買っていた。余り水とは江戸市中に給水後、最後に日本橋川の銭瓶橋(ぜにかめはし) に排水(というべきかどうか)された水である。銭瓶橋は一石橋(いっこくばし)の西方にあり道三堀(どうさんぼり)に架けられていたが、堀も橋も今はない。

文 江戸散策家/高橋達郎
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