Home > 江戸散策 > 第79回

江戸散策
江戸散策TOP
前回のページへBACK
次回のページへNEXT
江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第79回 目黒不動へ行く道は、風光明媚な行人坂。
『江戸名所図会』富士見茶亭(店の入り口に「御休みところ」「御せんじ茶」の行灯がある) 中川船番所資料館所蔵

『江戸名所図会』富士見茶亭(店の入り口に「御休みところ」「御せんじ茶」の行灯がある) 中川船番所資料館所蔵

 

富士見茶亭(ふじみぢゃや)のある行人坂は、富士見の名所として知られていた。勾配の急な坂で、現在の行人坂を歩いてみてもかなりのものである。歴史好きの方なら、話題の豊富なこの坂を歩いてみたい。JR目黒駅の西口を出るとすぐに三井住友銀行があり、そのビルの左脇から西に下っている坂が行人坂である(ビルの右側の大きな通りは権之助坂)。茶屋があったのは、ちょうどこの銀行(あるいはその裏側)の辺りである。
目黒という場所は、江戸時代を通じて人気の高い行楽地である。誰もがときどきは行きたいところだった。理由をあげてみると、まず「目黒不動尊」「大鳥神社」をはじめとする有名寺社があること。自然が豊かで眺めのよい景勝地であること、つまり、小高い山(台地)があるような地形で坂を伴っていることだ。目黒には西方に下る急な坂がいくつもあって、そこからは富士山がよく見えた。富士山を拝めるということは当時の人々にとってとてもありがたいことだったのだ。徒歩で回る一日の行楽にちょうどよい距離にあったことも目黒が人気スポットだった理由の一つである。

行人坂を有名にしたのは「行人坂の火事」だろう。明和9年(1772)、行人坂の途中にあった「大円寺(だいえんじ)」から出火(悪僧による放火)。火の手は強風にあおられ浅草方面まで及び、江戸市中の約三分の一を焼き尽くした。亡くなった人が一万四千七百余人という被害規模は、江戸時代の大火のうちでも二番目に大きな火事となった。「江戸三大大火」と一般に呼ばれているのは、明暦3年(1657)の「明暦の大火」、天和2年(1682)の「八百屋お七の火事」、そしてこの「行人坂の火事」である(諸説有り)。お七の火事よりも被害が大きかった火災は他にいくつもあるが、なぜ三大大火に入るのかはよく分からない。おそらく八百屋の娘お七が、恋人である寺小姓の吉三(きちざ)に再会するために放火してしまったという出火原因(真偽不明)に悲しい物語性があって、お七伝説として人々の記憶に長く留まったのではないだろうか。

行人坂の名前は、江戸初期に出羽三山(山形県)の修験僧が大日如来(だいにちにょらい)を祀って祈願道場を開き修行に励んだことによる。彼らを行人(ぎょうにん)と呼んだことからこの名前が付いた。この祈願道場こそが名刹「大円寺」の始まりである。ここを訪れて目を奪われるのは境内の一角の石仏群、五百羅漢(ごひゃくらかん)と呼ぶ。一体一体が違う表情をもつ何百体もの石仏が立ち並ぶ光景は壮観である。これらの羅漢像は行人坂の火事の犠牲者を供養するために50年もの歳月をかけて造られたという。羅漢とはもともと修行僧の意味で、火事で犠牲になった人々の霊を慰め、平和な世界を願う江戸の人々の祈りが込められている。

火事にまつわる興味深い話がもう一つ、行人坂には残されている。前述「八百屋お七の火事」のお七は放火犯として捕らえられ処刑されてしまうが、恋人だった吉三は僧侶となり西運(さいうん)と名を改め、お七の菩提を弔う諸国行脚の旅に出る。江戸に戻って入った寺は目黒の「明王院(みょうおういん)」。ここでも西運はお七の菩提を弔うための修行を続けることになる。言い伝えでは、浅草観音までの往復10里(約40キロメートル)を、念仏を唱えながらの1万日(27年5カ月)の荒行(隔夜日参り)を成し遂げたとき、お七の成仏したことを夢枕で知らされ「お七地蔵尊」を造ったのだという。また、その間に多くの江戸市民から集まった浄財で、歩きづらかった行人坂に敷石の道を造ったり、目黒川に丈夫な石造りの太鼓橋(たいこばし)を架けるなど、西運は数々の社会事業を行った。

偶然にも明王院は後に「行人坂の火事」の火元となる大円寺の隣にあった。明王院は明治期に廃寺になり(現在は目黒雅叙園)、仏像等は再建された大円寺に移され、寺そのものが吸収合併された。したがって、西運やお七に関係するものは今すべてこの大円寺にある。偶然の一致か不思議なことに、お七が放火したのは駒込の大円寺という名前の寺だった(自宅放火説も有り)。
行人坂の途中、目黒の大円寺には今も多くの人がお参りに訪れる。火災などの天災除けを願う人、大円寺の再建が叶ったように復興を祈る人も多いだろう。恋愛成就のご利益もありそうなお寺だ。境内には西運(吉三)の姿を刻んだ石碑とお七地蔵が仲良く並んでいる。

 
目黒のさんま祭り(目黒区民まつり/田道広場公園)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
目黒のさんま祭り(目黒区民まつり/田道広場公園)
さんま祭り、さんまは目黒に限る。

江戸時代の初めの頃、あるお殿様が馬の遠乗りに出かけた。目黒の辺りでお腹が空き家来に昼食を申し付けるが、突然のお出かけで用意がない。このとき近所の農家から分けてもらった焼いたさんまをお殿様は初めて食べ、そのおいしさが忘れられなかった。当時さんまは下魚(げざかな)といい、身分の高い者が口にすることはなかったのだ。後日、さんまをリクエストする機会に恵まれたが、出てきたのは体にさわったら大変ということで、骨を抜いて蒸し器で脂を抜いた変わり果てたさんまだった。ひと口食べてお殿様は叫んだ。「さんまは目黒に限る!」
 …古典落語の『目黒のさんま』は、だいたいこんなストーリーである。目黒でさんまが捕れるわけもなく、お殿様の世間知らずぶりを揶揄する楽しい落語をもとにスタートしたのが「目黒のさんま祭り」だ。
 このお祭りは、実は二種類ある。一つは品川区の「目黒駅前商店街振興組合」が主催するもので、場所はJR目黒駅からすぐの“目黒通り”で行われるもの。もう一つは目黒区が「区民まつり」の一環として“田道広場公園”で開催するものだ。平成24年の開催日は、品川区が9月9日(日)、目黒区の方が一週間後の16日(日)である。なお、JR目黒駅の辺りは目黒区ではなく、品川区である。
 さて、どちらが正統なのかと問われれば、難しいことになる。どちらも正しいのだ。始まったのは両方とも平成8年(1996)からで、落語の『目黒のさんま』にあやかったお祭りである。特徴としては、品川区の方は岩手県宮古産のさんまに徳島県産スダチを使用、目黒区の方は宮城県気仙沼産のさんまに大分県産カボスを使用する。
 どちらも数千匹の新鮮なさんまを用意して、おいしく炭火焼きでふるまってくれる(無料)。当日は相当の人出が予想されるので、早めに行って整理券をもらおう。

文 江戸散策家/高橋達郎
BACK 江戸散策TOP NEXT
page top