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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第10回 白米を食べられることが、江戸っ子の自慢。
舂米屋の内部と店先
『舂米屋(つきまいや)の内部と店先』
左側に伸びた木の端を足で踏んで、シーソーのようにして米をつく

 江戸っ子は、とにかくプライドが高かった。それには、理由がある。将軍のお膝元で生まれたこと、それに水道の水で産湯を使ったことである。『金の鯱(しゃちほこ)をにらみ、水道の水を産湯に浴びる』というように、大威張りである。江戸城天守閣の鯱は明暦の大火で消失してしまったが、当時は高層建築もないから、どこからでもよく見えたし、神田上水や玉川上水も機能していた。

 ここで本題に入るのだが、プライドが高いもうひとつの理由は、ピカピカの「白米」を食べられたからである。白米とは、玄米から胚芽、ぬかなどを取り除いた精米後の米。現代人が食べているのもこの白米である。当時これはもうたいへんなことだった。

 写真は舂米屋(つきまいや)の内部。今のお米屋さんである。店先では米を売っているが、その奧ではこのように玄米をついて精米をしていた。かなりしっかりした道具で唐臼(からうす)という。

 当時の地方は、一般に米は玄米、それに麦や稗、粟のようなものも食べていたと思われる。江戸では、米の流通システムが出来上がっていたから、長屋の住民も精米された白米を毎日口にすることができたのである。

 考えてみれば、田舎に暮らす人にとって、別に将軍様の膝元に生まれなくても生活に支障はないわけだし、産湯の水が何だったかなんて覚えている人もいないだろう。しかし、毎日の食べ物となるとこれは話が違う。米を十分、しかも白米を食べられるとなると、江戸は素晴らしい所ということになる。
 当時江戸の人口が増えた理由のひとつに、江戸に「白米」があったからと筆者は踏んでいる。「江戸に働きに出れば、おいしい白米を腹一杯食べられる」。と考えてもおかしくない。実際、江戸には仕事もあったし、都市として地方の者を受け入れる環境もあった。

 しかし、白米はいいことばかりではない。胚芽部分に含まれていたはずのビタミンB1が欠乏した。だから江戸では脚気(かっけ)が非常に多かった。江戸へ出てきた者が地方に戻ると直ったことから、「江戸患い(わずらい)」と呼ばれるほどである。ひとたび江戸を離れれば、麦や雑穀の飯が主食になるので、知らず知らずのうちにビタミンB1を摂取できたということだろう。当時の人は医学的な根拠でなく、経験則としてとらえていたようだ。
 おいしい白米を食べて、誇らしく「花のお江戸」で暮らせるものの、脚気になるとは皮肉な話である。

右上に続く >
   
ちょっと江戸知識「コラム江戸」
米流通の元締め的存在、札差。
春米屋の土蔵
 
 米の話をするときに、避けて通れないのが「札差(ふださし)」だ。流通ルートの一例をあげると、徳川の家臣である旗本・御家人は、給与を米でもらっていた。しかしこれは受け取る側としてはかなり不便だ。そこで武士たちは、札差という代理業者(金融業者の側面もある)に頼んで米を引き取ってもらい、手数料を払い換金する。
 米はその後、札差から問屋や仲買などを経て「舂米屋(つきまいや)」へ。いわゆるお米屋さんへたどりつく。
 もともと江戸の経済は、米を基盤として成り立っている。それは、幕府に年貢米として直轄地である天領から米が集まったからである。
 江戸時代は既に貨幣経済の時代。現代のように食べ物をはじめ、何でもお金で買わなければならない。だから、幕府も通貨政策には神経を使った。その片棒を担いだのが札差だったともいえる。結果、お金の流通は経済を発展させ、長屋の住民も米を買うことができたのである。
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