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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第12回 江戸っ子は、毎日旬のものを食べていた。
八百屋
『八百屋』
(旬のもの、つくし・生わらび・白うり・びわ・まつたけ・みかんなども並ぶ)

 江戸の庶民は、何を食べていたのだろうか。食文化などという大袈裟な話ではなく、長屋の住民の食べ物に焦点を当ててみよう。
 主食は江戸っ子の自慢、白米である。地方はともかく、江戸には米が集まり豊富にあった。そして庶民にまで行き渡った。

 写真は長屋の表通りにある八百屋さんの風景(江戸後期)。基本的には現代の野菜と同じ雰囲気だ。当然だが、洋野菜や外国産のものはない。ネギ、ニンジン、ゴボウなどお馴染みのものばかり。特徴といえば、ミョウガ、トウガラシなどの香辛料的な野菜が多かったことである。長屋の住民は農家ではないから、このような八百屋さんで野菜や果物を買って食べた。
 当時の流通システムはかなりしっかりしている。野菜は青物(あおもの)と呼ばれ、江戸のいわゆる青物市場は、駒込、神田、千住にあった。ここに仲買商人が農家を回って集めた野菜が持ち込まれる。小売りである町の八百屋さんは、市場の青物問屋から、さらに仲買を介して野菜を仕入れた。店を構える以上は、勝手に農家から直接仕入れることはできない仕組みだ。

 江戸っ子は初物好きで有名。筆頭にくるのはカツオだろう。「勝つ魚」に通じ、縁起が良いことからもてはやされた。『初物を食べると七十五日長生きする』と言われ、初物を競って食べた。初鰹一本に二両・三両(10万円以上)も払ったという記録には驚く。これはお金持ちの見栄か? それとも江戸っ子の粋なのか?

右上に続く >

 初鰹などはとても庶民の口に入るものではない。長屋の多くは海の近くに位置していたが、アジやサンマなどの魚もそうたやすく食べられたわけではない。魚は野菜よりも鮮度が求められるから、真っ先に料理屋や仕出し屋などに行ってしまう。長屋にも魚の行商が来たが、やはり庶民が毎日食べられるようなものではなかった。

 初鰹に対して、野菜では初ナスが人気だった。これも「成す」に通じ、初夢では三番目にランクインするほどの縁起物。初物への加熱振りは、幕府が初物売買禁止令を出すほどすごかった。
 初物も日が経つうちに八百屋さんの店先に並ぶ。だから消費者である長屋の住民は、旬のものばかりを食べていたことになる。贅沢な話に聞こえそうだが、裏を返せば旬のものしか無かったのである。保存のきくものは別として、促成栽培の技術も発達していなかったし、冷凍技術もまだない時代だから、当たり前といえば当たり前。
 現代人は、食べたい野菜も果物も魚も、何でも一年中食べられる。便利というか、ありがたいというか、しかし不幸にして、旬のものや初物を食べる感激、それに季節も忘れてしまったようだ。

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
食器収納ができる食卓「箱膳」。
箱膳
箱膳 (箱状で、蓋の部分を裏返して使う)
長屋住まいの食事を想像してみよう。現代のような食事専用スペースはなく、箱膳という四角い台を使った。
 食事のキーワードは「一汁一菜」。簡単に言えば、ごはん、みそ汁、漬け物である。思いきり質素な食事だが、これが基本である。ときには二菜になったり、他に魚、豆腐、納豆などが加わった。貧しい食生活と思われるかもしれないが、そんなことはない。江戸の白米を主食とした食事は、地方の人からみれば、あこがれの食事だ。
 箱膳は、一人ひとり専用のいわば銘々膳である。これはかなり贅沢な側面もある。家族一人ひとりの食べる必要量が最初から確保されているわけで、用意にも手間がかかる。また、見方を変えれば、長屋という狭い住空間で暮らす工夫でもあった。食事のときに箱膳を並べて、終わったら積み重ねておけば場所をとらない。当時はまだ食卓を囲むという習慣はなく、「ちゃぶ台」が普及したのは、明治になってからである。
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