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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第14回 江戸の時間は、いったいどうなっているの?
江戸の時間

『江戸の時間』
(不定時法)

 江戸を我々が楽しむためには、少しばかりの時間の知識が必要である。江戸の人々は、かなり複雑な時間の数え方をしていたようだ。そこで、思い切り簡略化した時間の数え方の図表を作ってみた。専門家は少々異論もあるかもしれないが、これで十分事足りる。

 時間の表現には、二種類あった。子、丑、寅、卯…の十二支をあてた「子の刻(ねのこく)」「丑の刻(うしのこく)」…というタイプと、「九つ(ここのつ)」「八つ(やっつ)」と呼ぶタイプだ。前者は主に武士が、後者は庶民が使ったようだが、はっきりした区別はなかった。前者は、一刻が約2時間という時間幅であり、十二支との関係もあって比較的理解しやすい。そういえば、正午や午前・午後の「午」には「午刻(うまのこく)」の名残がある。後者の庶民タイプの方が面倒なので簡単に説明しよう。

 まず、当時は日の出を「明六つ(あけむっつ)」、日没を「暮六つ(くれむっつ)」と決めた。それぞれの間を六等分、一日を十二の刻で呼ぶ。とりあえず、明六つを午前6時、約2時間後に次の刻に変わると考えれば分かりやすい。したがって、「明六つ半」は午前7時だ。頭に、明、朝、昼、暮、夜、暁を置いて使い分けもした。趣のある表現だが、紛らわしい気もしないではない。

話がややこしくなってしまう理由は、呼び方よりも、一年を通じて昼夜の長さが違うことによる。夏は昼が長いので、昼の一刻は長く、当然夜の一刻は短くなる。冬はその逆だ。不定時法の江戸時代は、時間が伸びたり縮んだりしていたと言っていい。

そこで問題:七つの意味は? ♪お江戸日本橋七つ立ち、初のぼり、行列そろえてアレワイサノサ、コチャ高輪夜明けて提灯消す、コチャエ、コチャエ~♪ 答え:大名行列が早朝4時頃日本橋を出発して、高輪あたりで夜が明けて提灯を消したということ。
 「丑の刻参り(うしのこくまいり)」、「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)」の時間は? これは両方とも深夜の2時頃で、この場合の「三つ」は、夜だけは一刻を三つに分けて呼んだためこうなった。だから、丑一つ、丑二つという言い方もある。

 江戸の人々は、日が昇れば働き日が沈めば休むという、自然の法則のなかで暮らした。誰も不便でなかったし、合理的で健康的であったとも思う。それに、一分一秒を争うようなことは、この時代にはない。約束の時間を5分でも過ぎようなものなら、待つ方も待たされる方もイライラするなんてことないのである。現代人にはうらやましく思えるほど、大ざっぱにゆっくりと時間が流れていた。
右上に続く >
   
ちょっと江戸知識「コラム江戸」
花の雲 鐘は上野か 浅草か
時の鐘
『時の鐘』 (台東区浅草2丁目3番)
芭蕉の句でも有名な浅草寺の鐘。「時の鐘」は人々に時刻を知らせた。鐘楼は昭和20年の空襲で焼失したが、すぐ再建された。鐘はもちろん江戸時代のものである。
 時の鐘の第一号は、江戸初期に日本橋本石町に設置された。それまでは江戸城内で太鼓を鳴らしていた。伝達手段として鐘を採用したのは着眼点がいい。江戸中をカバーできたとは思えないが、今でも遠くの除夜の鐘が聞こえるくらいだから、よく聞こえたのではないだろうか。
 その後、浅草寺を含め九カ所に時の鐘が設けられた。そこには鐘撞役(かねつきやく)がいて、鐘撞き料は周辺の町から徴収したり、寄付でまかなわれたようだ。
 時の鐘は、まず三打して注意を引き付け(捨て鐘)、次に時刻の数を撞く。「六つ」であれば六打する。長屋の木戸(門)が「明六つ(午前6時頃)」で開き、「夜四つ(午後10時頃)」閉まるというように、庶民にとって時の鐘は毎日の暮らしになくてはならないものだった。
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