「椀(わん)と箸(はし)持って来やれと壁をぶち」という川柳は、長屋の暮らしをみごとにとらえている。隣の住人の腹の虫が鳴くのが聞こえたのだろうか、今日はこっちに来て一緒にご飯を食べようと、薄い壁を叩いて知らせているのである。でも、こっちも椀と箸は人数分しかないから、持って来いよ──くらいの意味だ。
貧しい生活ではあるが、そこには暗さがない。なぜか。みな一様に貧しかったからである。困ったときは誰かが助けてくれた。余裕のあるときは、誰かを助けることができた。長屋というコミュニティーには、その日暮らしの住人も確かに多かったが、助け合いの精神がしっかり根付いていた。
長屋は表通りから路地を入ったところにある細長い住居用の建物で、複数の世帯が入っている。立地から「裏長屋」や「裏店(うらだな)」とも呼ばれた。敷地内には、共同の井戸や便所、ゴミ捨て場、お稲荷さんなどもあって、一つの生活共同体が出来上がっていた。江戸で暮らす一般の人々はだいたいこのような所で生活していたのである。自然に連帯感や助け合い精神が生まれてくると単純に考えがちだが、長屋という単位の独特な仕組みが背景にあった。
「大家といえば親も同然」という表現は、長屋社会そのものである。「大家(おおや)」とは長屋の所有者から管理を任され、その長屋のすべてを把握している立場の人をいう。現代のマンションの管理人とは違い、住人とのかかわりが深い。仕事は多岐にわたり、やることも多いかわりに権限もあった。店賃(家賃)の徴収、もめ事の仲裁、冠婚葬祭の手続き、旅に必要な手形の申請をする手続き、店子(たなこ)が何かの訴訟で町奉行所に行く場合などにも同行した。長屋は末端の行政単位だったので、奉行所からの町触れなどを長屋の住民に分かりやすく伝達することも大家の大切な仕事である。
そればかりではない。お嫁さんを紹介したりもすれば、みんなを連れて花見に出かけたりもする。少々のお金なら用立ててやる。物も貸すといった具合で、大家は店子の世話をした。長屋の住人には、独り者もいれば所帯持ちもいる。魚を売り歩く棒手振職人、大工、手習いの師匠、髪結、浪人…子どもから老人まで、いろいろな人たちが家族のような付き合いをして、協力し合って暮らしていた。
大家が管理する長屋というユニットは、幕府側からみれば都合の良いものだったと思う。視点を変えれば、住民たちは生活の隅々まで管理され、支配されている構図が見えてくる。大家は行政組織の末端で、役人のようである。長屋ユニットは町の重要な構成要素を成し、大家は店子に対して連帯責任を負わされていた(連座)。江戸の町の治安が良かった理由は、こんなところにもあったのかもしれない。地震や火事などの災害時でさえ犯罪は少なかったという。
大きな災害に見舞われたときには、親も同然の大家でも手に負えるものではない。やはり、幕府の出動である。明暦の大火(1657)では、燃え落ちた江戸城天守の復興を中止し、幕府は町の復興に力を注ぎ、町々にお金を給付している。天明年間(1781~89)の大飢饉、安政の大地震(1855)も被害は甚大だった。
安政の大地震のときは、幕府や有力諸藩は、完璧とは言わないまでも、被災した人にまず必要な「炊き出し」を行い、急いで「お救い小屋」を建てた。これは避難用の仮設小屋で、火除け地やスペースのある広小路に建てられた施設である。次に「お救い米」が始まる。米・味噌・醤油・薬などの配給である。幕府は緊急時に備えて「囲い米」のストックがあった。経済政策としては物価統制令も出す。そのうちに江戸の各藩邸には国許から支援物資が届き、支援の大工や人足も到着。彼らは自藩だけでなく、民間のためにも働いた。
江戸時代、武士はただ威張っているばかりではなかった。お金持ちもただ見ているだけではなかった。近隣の豪農・豪商は、幕府に献金するかたちで協力し、被災を免れた人は被災者を助け、江戸中が助け合って復興に向かったのである。 |