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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第74回 「困ったときはお互い様」の助け合い。
長屋の様子(深川江戸資料館)『江戸の台所』(人文社)より転載
長屋の様子(深川江戸資料館)『江戸の台所』(人文社)より転載
 

「椀(わん)と箸(はし)持って来やれと壁をぶち」という川柳は、長屋の暮らしをみごとにとらえている。隣の住人の腹の虫が鳴くのが聞こえたのだろうか、今日はこっちに来て一緒にご飯を食べようと、薄い壁を叩いて知らせているのである。でも、こっちも椀と箸は人数分しかないから、持って来いよ──くらいの意味だ。
貧しい生活ではあるが、そこには暗さがない。なぜか。みな一様に貧しかったからである。困ったときは誰かが助けてくれた。余裕のあるときは、誰かを助けることができた。長屋というコミュニティーには、その日暮らしの住人も確かに多かったが、助け合いの精神がしっかり根付いていた。

長屋は表通りから路地を入ったところにある細長い住居用の建物で、複数の世帯が入っている。立地から「裏長屋」や「裏店(うらだな)」とも呼ばれた。敷地内には、共同の井戸や便所、ゴミ捨て場、お稲荷さんなどもあって、一つの生活共同体が出来上がっていた。江戸で暮らす一般の人々はだいたいこのような所で生活していたのである。自然に連帯感や助け合い精神が生まれてくると単純に考えがちだが、長屋という単位の独特な仕組みが背景にあった。
「大家といえば親も同然」という表現は、長屋社会そのものである。「大家(おおや)」とは長屋の所有者から管理を任され、その長屋のすべてを把握している立場の人をいう。現代のマンションの管理人とは違い、住人とのかかわりが深い。仕事は多岐にわたり、やることも多いかわりに権限もあった。店賃(家賃)の徴収、もめ事の仲裁、冠婚葬祭の手続き、旅に必要な手形の申請をする手続き、店子(たなこ)が何かの訴訟で町奉行所に行く場合などにも同行した。長屋は末端の行政単位だったので、奉行所からの町触れなどを長屋の住民に分かりやすく伝達することも大家の大切な仕事である。
そればかりではない。お嫁さんを紹介したりもすれば、みんなを連れて花見に出かけたりもする。少々のお金なら用立ててやる。物も貸すといった具合で、大家は店子の世話をした。長屋の住人には、独り者もいれば所帯持ちもいる。魚を売り歩く棒手振職人、大工、手習いの師匠、髪結、浪人…子どもから老人まで、いろいろな人たちが家族のような付き合いをして、協力し合って暮らしていた。

大家が管理する長屋というユニットは、幕府側からみれば都合の良いものだったと思う。視点を変えれば、住民たちは生活の隅々まで管理され、支配されている構図が見えてくる。大家は行政組織の末端で、役人のようである。長屋ユニットは町の重要な構成要素を成し、大家は店子に対して連帯責任を負わされていた(連座)。江戸の町の治安が良かった理由は、こんなところにもあったのかもしれない。地震や火事などの災害時でさえ犯罪は少なかったという。

大きな災害に見舞われたときには、親も同然の大家でも手に負えるものではない。やはり、幕府の出動である。明暦の大火(1657)では、燃え落ちた江戸城天守の復興を中止し、幕府は町の復興に力を注ぎ、町々にお金を給付している。天明年間(1781~89)の大飢饉、安政の大地震(1855)も被害は甚大だった。
安政の大地震のときは、幕府や有力諸藩は、完璧とは言わないまでも、被災した人にまず必要な「炊き出し」を行い、急いで「お救い小屋」を建てた。これは避難用の仮設小屋で、火除け地やスペースのある広小路に建てられた施設である。次に「お救い米」が始まる。米・味噌・醤油・薬などの配給である。幕府は緊急時に備えて「囲い米」のストックがあった。経済政策としては物価統制令も出す。そのうちに江戸の各藩邸には国許から支援物資が届き、支援の大工や人足も到着。彼らは自藩だけでなく、民間のためにも働いた。

江戸時代、武士はただ威張っているばかりではなかった。お金持ちもただ見ているだけではなかった。近隣の豪農・豪商は、幕府に献金するかたちで協力し、被災を免れた人は被災者を助け、江戸中が助け合って復興に向かったのである。

 
一石橋迷子しらせ石標 中央区八重洲1丁目11番地先
ちょっと江戸知識 コラム江戸
一石橋迷子しらせ石標 中央区八重洲1丁目11番地先
迷子を助け出してくれる石標。

今も一石橋(いっこくばし)のたもとに残っている石の柱。近くの東京都教育委員会の案内板には『付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)に建立』とある。この石標は現在「一石橋迷子しらせ石標」という名称で呼ばれている。つまり、迷子や尋ね人を探す伝言板、いや伝言石として機能したものだ。
石標正面の文字は「満よひ子能志るへ」、向かって右側面は「志らす類方」、左側面は「たつぬる方」と彫られている。現代表記にすれば、それぞれ「迷い子のしるべ」「知らする方」「尋ぬる方」だ。
当時の人々の使い方を紹介しよう。子どもがはぐれて行方不明になった場合、探している子どもの特徴や親の連絡先を紙に書いて、石標の左側面に貼り付ける。貼る場所は石標上部の凹みのあるスペース(写真参照)。逆に、迷子になっている子どもを保護しているような場合は、石標の右側面にその情報を書いて貼り付ける。
貼るスペースはそれほど広くはない、小さい紙なら数枚というところか。飯粒(めしつぶ)でしっかり貼り付けたと想像する。感心するのは、紙が風で飛ばないよう貼る所が窪んでいていること、雨除けのような庇(ひさし)が付いていること。なかなか考えられた石標だ。
人出の多い江戸の町では、迷子が出る。子連れで出かけるときは、名前と住所を書いた「迷子札」を身に付けさせもしたが、いったん迷子になったら大変である。迷子は交番のような役目をもつ「自身番(じしんばん)」「木戸番(きどばん)」、それに一般人も面倒をみてくれた。町の人々はみな協力し合っている。人助けの石標ともいうべき「迷い子のしるべ」を造る篤志家もいたのである。同様の石標は、浅草寺境内、湯島天神境内にもあった。

文 江戸散策家/高橋達郎
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