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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第49回 川口の鋳物の鉄鍋を江戸市民は使っていた。
『江戸名所図会』河口鍋匠 (左下に積まれているのは炭俵、木炭を燃料にして鉄を溶かした)
『江戸名所図会』河口鍋匠 (左下に積まれているのは炭俵、木炭を燃料にして鉄を溶かした)

河口鍋匠(かわぐちのなべづくり)と題されたこの図会は、いわば鍋の鋳物(いもの)工場といったところ。一般に鋳物とは金属を高温で溶かして、砂の型に流し込んでできた製品をいう。当時使われていた鍋は、みなこのようにして作られた鉄鍋である。  河口は現在の埼玉県川口市を指す。今も、鋳物といえば川口といわれるほど知られその歴史は古い。暦応年間(1338〜1342)に河内地方から職人が移り住んで始まったという。とすると、室町時代の初期からずっと続いているということだ。戦国時代からとする説もあるが、それにしても長い歴史がある特記すべき産業である。

鋳物といわれてもピーンとこないのが現代人。それはそれで無理もない。身の回りの生活用品から鋳物は少しずつ消えている。台所で鉄鍋や釜、鉄瓶を使うことは、特殊な料理でもない限りまずないだろうし、火鉢(ひばち)などはとっくに消え去ってしまっている。そういえばベーゴマも鋳物だったし、懐かしい石炭ストーブもそうだ。お寺の梵鐘も鋳物である。今、分かりやすい鋳物の代表的なものをあげるとすればマンホールのふた。東京オリンピックの聖火台も川口で造られた鋳物だ。丈夫で長持ち、表面がサビることによって内部まではなかなか腐食しないという鋳物の特長が生かされている例だろう。
このように書いていると、鋳物はとてもレトロなイメージになってしまうが、今も日本の製造業の基幹を担っていることに変わりはない。さまざまな工作機械や各種の製品パーツなど、鋳物でなくては不可能な技術が限りなくある。鋳物の歴史のなかで鋳造(ちゅうぞう)技術はめざましい発展を遂げてきた。
江戸時代に使われていた鍋は、ほとんどが鉄の鋳物だった。銅は生産量が上がってきた時代で銅鍋もあっただろうが、長屋の暮らしのなかで高価な物は考えにくい。鉄鍋を竈(かまど)に据えて毎日使っていたのだろう。鍋釜は庶民にとってはだいじな財産でもある。

江戸時代、川口で鋳物業が発展したのは、鋳物の型に適した粘土と砂が近くの荒川で採取できたからだと一般的には理解されている。荒川を利用して原材料を運び込み、製品も荒川を利用して江戸へ輸送できるという好条件が揃っていたことにもよるだろう。しかし、原材料である鉄や砂鉄はどこから調達したのだろうか。当時の主要産地は、鳥取や松江の山陰地方であまりにも遠い。海運を用いて荒川を上ったと考えるべきだろうが疑問も残る。
川口が鋳物で栄えた最大の理由は、やはり江戸という大消費地が近くにひかえていたからだろう。今の川口がベッドタウン化した理由もまた、大都会東京に近いからに他ならない。

鋳掛屋 (アコーディオンのような箱はふいご)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
鋳掛屋 (アコーディオンのような箱はふいご)
鍋の穴をふさいでくれる鋳掛屋。

長い年月使っていれば、鍋の底はすり減って当然穴が開く。でも高価な金属類を捨てることはない。直してまた使うというのが、江戸の人々の発想だ。鍋や釜の修理を専門する鋳掛屋という職人がいた。道具を天秤棒に担いで江戸市中を歩き回る商売である。鋳掛屋の道具としては、鋳直すための燃料となる炭、火炉(かろ)となる七輪(しちりん)のようなもの、鞴(ふいご)も必要だ。ハンダ付け作業を想定すればいい。鞴は高熱を発生させるための送風器で、鋳掛屋に不可欠な道具である。
江戸には火事が多かったため、避難の様子を描いた絵も多く残っている。そのなかに鍋や布団を担いでいる人が描かれている場合がある。その避難風景は滑稽に見えてしまうのだが、鍋などの鉄製品はやはり貴重な財産であったことがうかがえる。庶民にとって、鍋釜は修理して使えばほとんど一生モノといってよく、古鉄買(ふるかねかい)に売れば容易に現金化もできたからである。

文 江戸散策家/高橋達郎
画/新道武司
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