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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館、江戸幕府 鉄砲組百人隊保存会
コラム江戸
第30回 百人町(新宿区)の由来は、鉄砲組百人隊。
新宿区無形民俗文化財「江戸幕府 鉄砲組百人隊」 (合戦演武・発射 平成17年9月)
新宿区無形民俗文化財「江戸幕府 鉄砲組百人隊」 (合戦演武・発射 平成17年9月)

皆さんは、本物の火縄銃(ひなわじゅう)を撃つ音を聞いたことがあるだろうか。パーン、パーンくらいの音を想像していたが、とんでもない。すさまじい音だ。文字にするとしたら、ドカーンとかズドーンといった重々しい轟音である。それに煙と臭いに圧倒される。
これは、皆中稲荷神社(かいちゅういなりじんじゃ/新宿区百人町1-11-16)に奉納される「江戸幕府 鉄砲組百人隊 出陣の儀」の風景である。隔年で挙行される祭事で見物客も多い。火薬はもちろん使用するが、本物の玉は使わないので危険はない。

事の起こりは江戸幕府開設期にさかのぼる。豊臣秀吉の命で、徳川家康が江戸入府を果たしたのが天正18年(1590)8月、その先陣を勤めたのが、服部半蔵を頭領とする鉄砲同心百人だった。鉄砲の威力はすでに各合戦で知られていた。これはかなりの重装備といえる。江戸はもともと小田原北条氏の支配下だったため、抵抗勢力を威圧するためにも有効だったのだろう。
服部半蔵は今は忍者としてのイメージが強いが、もともと伊賀の地侍(じざむらい)で家康の信任厚く、長年にわたって家康を守ったSPのような存在である。明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582)直後、家康が難を逃れて堺から当時の領地である三河に戻れたのは服部半蔵のおかげであることはよく知られている。

家康入府後も鉄砲組百人隊を現在の新宿の地に駐屯させた。西方から攻めてくる北条氏の残党を想定し、江戸の西方を固めたのだった。関ヶ原の戦い(1600)で天下を制し、幕府創設にあたって家康は、鉄砲組百人隊を老中直轄(後に若年寄直轄)の組織とし、大久保百人町(新宿区百人町)に組屋敷を設けて定住させ、万一に備えた。
日頃の任務は、江戸城大手三之門の警備で、昼夜交替で詰めた。「百人番所」は現在も皇居東御苑に残されている。また、徳川家の菩提寺である増上寺(港区)、寛永寺(台東区)、日光東照宮などへ将軍が参詣するときや、京都御所参上のときには、隊列を整えて随行し警護したという。太平な江戸時代にこの行列は、将軍の権威を世に知らしめる大パフォーマンスと言えなくもない。

皆中(かいちゅう)稲荷神社と鉄砲組百人隊の関係を付け加えておきたい。神社の縁起によると…鉄砲組の与力が射撃を精魂傾けて練習していたが思うようにいかない。ある夜稲荷の大神が夢枕に立ち護符を示されたので、翌朝さっそくお参りしたところ、大矢場(練習場)での射撃が百発百中。それを見た鉄砲組は、誰もがこの稲荷にお参りをするようになったという。漢字をよく見れば、皆中稲荷は「みなあたるのいなり」と読めるではないか。

ちょっと江戸知識 コラム江戸
『江戸名所図会』大久保躑躅園(おおくぼつつじえん)
大久保つつじと鉄砲組百人隊。

「大久保つつじ」というのは、つつじの品種ではなく、大久保百人町で栽培されたつつじを指す。つつじはもともとこの地に自生していたものらしいが、宝暦年間(1751〜1761)には、本格的につつじの栽培が始まった。
江戸中期になると、大久保百人町はつつじの名所として知られ『江戸第一の壮観』と評判で、大名も一般庶民も、多くのつつじ園を見学に訪れ、また買い求めた。
では、誰がつつじを栽培したのかというと、「鉄砲組百人隊」である。余暇を利用し組屋敷をあげて栽培した。屋敷内に数千本ものつつじを植えて商売していた例もある。江戸城を守り、将軍を警護する立場の鉄砲組になぜこんな悠長なことが許されたのだろうか。それは鉄砲組の懐具合だ。本業の戦(いくさ)がないから手柄をあげることがない。手柄がないということは、俸禄(給料)のベースアップもないわけで、サイドビジネスに精を出すことになった。幕府も容認した。平和な時代である。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館、
江戸幕府 鉄砲組百人隊保存会
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