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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
画/新道武司
協力・資料提供/深川江戸資料館
第11回 湯屋の二階は、コミュニケーションの湯。
湯屋の二階
『湯屋の二階』
(このような休憩所は女湯にもあったが、主に男湯の二階にあった)

 風呂から上がったあとは、現代人ならソファーに寝っ転がってテレビでも見てくつろぐといったところが一般的だろう。そんなシーンは江戸時代にもある。もちろんテレビはないけれど。イラストは、湯屋(ゆや、ゆうや)、つまり銭湯の二階の様子である。

 男湯の場合、風呂に入ったあと、階段をトントンと二階に上がって一休みする。入浴料とは別料金だ。さらにお金を払えば、茶や菓子も楽しめる。碁や将棋も用意されているし、のんびりいっぷくできるわけだ。そればかりではない。男たちのたまり場である湯屋の二階は、情報の行き交う人々のコミュニケーションの場であった。
 女性には「井戸端会議」という言葉があるので、男性用に筆者はぜひこれを「湯屋会議」と命名したい。湯屋には、武士も町人も、長屋の住民もみんなやってくる。身分の違う者同士が同じ湯船を使い、裸の付き合いをしていたというわけだ。当然町の噂や事件は、またたくまに江戸中に広がるところとなった。

 湯屋の一階を紹介しよう。まず暖簾をくぐって入ると、そこは土間、番台がある。番台のことを高坐(たかざ)と呼んだ。そこで湯銭8文を払う。入浴料は時代によって上下するが、天保12年(1841)頃の話。今のだいたい200円位の感覚だ。板の間の脱衣場の奧は、洗い場と浴槽が別々の部屋のような構造になっていて、「流し板」と呼ばれる洗い場には「上がり湯」が別に用意されていた。

 二階になぜこのような施設があったのかというと、もともとの目的は、武士の刀を風呂に入る間預かったということらしい。刀掛けがあって、見張り番もいた。
 ご存じのように、武士にとって刀は、命より大事なもので、身から離すのはもってのほかである。まさか、一緒に入るわけにもいかないと思う向きもあるが、片手で刀を握りしめて上に突き上げ、湯船につかったなどという笑い話もある。実際にはそんなことはなかっただろうけど、それほど刀は大切なものだった。

 男湯と女湯は最初から分かれていたわけではない。羨ましいというか、不謹慎というか、混浴の時代がかなり続いた。もう少し正確にいうと、一応男女の別はあっても、かなり曖昧だったようである。
 ついに、寛政3年(1791)に「男女入込(いりこみ)禁止令」のお触れが出て混浴禁止。老中松平定信による寛政の改革の一環である。有名なこの改革は、学校教科書にも載っている。基本的には政治改革なので、「倹約令」「棄捐令」「寛政異学の禁」あたりが主な施策。したがって、試験問題などでは「男女入込禁止令」などと決して答えないように…。  

右上に続く >
   
ちょっと江戸知識「コラム江戸」
洒落であり知恵でもある「石榴口」。
石榴口
石榴口(湯屋内部、奧に浴槽がある)
 石榴口とは、湯屋(銭湯)の洗い場から湯船への入口、門のような部分を指す。板壁の下が開いているような感じだ。人はここを身をかがめて通ることになる。
 なぜわざわざこんな不便な構造にしたのか。浴槽の熱がなるべく外に逃げないようにして湯がさめないようにするための工夫だ。江戸時代の省エネ対策ともいえる。
 ではなぜ石榴口と呼んだのかといえば、石榴(ざくろ)の木を使ったとか、そういう問題ではなく、ただの洒落である。──当時の鏡は銅製で、日頃から磨いていないとすぐ錆びてしまう。そこで鏡を磨くために使ったのが石榴の果汁だった。かがんで入る、つまり「屈(かがみ)入る」に「鏡要る」を掛けたということらしい。
 この中はかなり暗かっただろう。湯の汚れもあまり目立たなかった。石榴口の形状は鳥居を模した。清潔面では疑問があるが、江戸の人々にとって入浴は、身を清めるという意味合いがあったことも忘れてはならない。
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