風呂から上がったあとは、現代人ならソファーに寝っ転がってテレビでも見てくつろぐといったところが一般的だろう。そんなシーンは江戸時代にもある。もちろんテレビはないけれど。イラストは、湯屋(ゆや、ゆうや)、つまり銭湯の二階の様子である。
男湯の場合、風呂に入ったあと、階段をトントンと二階に上がって一休みする。入浴料とは別料金だ。さらにお金を払えば、茶や菓子も楽しめる。碁や将棋も用意されているし、のんびりいっぷくできるわけだ。そればかりではない。男たちのたまり場である湯屋の二階は、情報の行き交う人々のコミュニケーションの場であった。
女性には「井戸端会議」という言葉があるので、男性用に筆者はぜひこれを「湯屋会議」と命名したい。湯屋には、武士も町人も、長屋の住民もみんなやってくる。身分の違う者同士が同じ湯船を使い、裸の付き合いをしていたというわけだ。当然町の噂や事件は、またたくまに江戸中に広がるところとなった。
湯屋の一階を紹介しよう。まず暖簾をくぐって入ると、そこは土間、番台がある。番台のことを高坐(たかざ)と呼んだ。そこで湯銭8文を払う。入浴料は時代によって上下するが、天保12年(1841)頃の話。今のだいたい200円位の感覚だ。板の間の脱衣場の奧は、洗い場と浴槽が別々の部屋のような構造になっていて、「流し板」と呼ばれる洗い場には「上がり湯」が別に用意されていた。
|
|
二階になぜこのような施設があったのかというと、もともとの目的は、武士の刀を風呂に入る間預かったということらしい。刀掛けがあって、見張り番もいた。
ご存じのように、武士にとって刀は、命より大事なもので、身から離すのはもってのほかである。まさか、一緒に入るわけにもいかないと思う向きもあるが、片手で刀を握りしめて上に突き上げ、湯船につかったなどという笑い話もある。実際にはそんなことはなかっただろうけど、それほど刀は大切なものだった。
男湯と女湯は最初から分かれていたわけではない。羨ましいというか、不謹慎というか、混浴の時代がかなり続いた。もう少し正確にいうと、一応男女の別はあっても、かなり曖昧だったようである。
ついに、寛政3年(1791)に「男女入込(いりこみ)禁止令」のお触れが出て混浴禁止。老中松平定信による寛政の改革の一環である。有名なこの改革は、学校教科書にも載っている。基本的には政治改革なので、「倹約令」「棄捐令」「寛政異学の禁」あたりが主な施策。したがって、試験問題などでは「男女入込禁止令」などと決して答えないように…。
|