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コラム江戸

第92回 加賀前田家の参勤交代、百万石の大名行列。

加賀藩大名行列図屏風(部分) 行列が長いのでS字のジグザグ状に描かれている(石川県立歴史博物館蔵)

2015年春、北陸新幹線東京〜金沢ルートが開業した。金沢は、江戸時代は加賀前田家の城下、今も歴史と文化が色濃く残る町である。加賀百万石といわれるように、加賀藩は突出した全国一の大藩、それに次ぐ薩摩藩でさえ七十七万石だった。

加賀藩の参勤交代の場合、江戸までの街道を調べてみると、面白いことに北陸新幹線とほぼ同じであることに気付く。現代の進んだ技術をもって新幹線をもっと直線的に走らせれば、時間を短縮できるだろうと思えるが、自然の地形やいろいろな事情もあったのだろう。江戸時代のルートとそう変わってはいない。金沢から江戸へのルートは北陸新幹線のように、越中→越後→信濃→上野→武蔵(北国下街道→中山道)だった。この他にも、逆方向に南下して中山道に入るルートと東海道に入る2ルートがあったが、この道筋を使ったのはいずれも数回程度。徒歩を想定すると、どちら回りにするか現代地図を眺めても悩むところである。

加賀藩は、参勤交代を合わせて190回している。大藩ゆえにその規模もまた大きかった。随行人員は最低でも2,000人、多いときは4,000人という。とんでもない数である。これだけの人間が行列をつくって、山や谷を越え、河を渡り、街道を進むのだから大変な話だ。寝泊まりは? 食料は? お風呂は? などと気になるところだが、それでも百万石の大名行列は江戸をめがけて進んだ。
江戸まで順調にいけば12泊13日。日程は前もって老中に届け出て許可をもらっているので、簡単には変えられない。もし天候の関係や、洪水などで川止めになって遅れるようなことがあれば、すぐ報告を出さなければならなかった。また、先々の宿場では準備をしていて予定が狂うと都合が悪い。出費もかさむことになる。

金沢と江戸は距離にして120里、480キロ。参勤交代のスケジュールでは、1日に30数キロ歩かなくてはならず、遅れをとったらその分先を急ぐことになる。当時の人の健脚ぶりには驚く。ただ歩いているだけではない。弓、槍、鉄砲などもある。駕篭を担ぐ人も必要で、とにかく荷物が多いのだ。将軍や幕府要職への贈答品なども持っていくのが慣例である。殿様の身の回りの物も一式必要で、驚くのは、殿様専用の風呂桶も持っていく場合もあるという。
ハードスケジュールを組んだ理由は経費節減のためだった。一回の道中で数千両(現代のお金では数億円)を要した。

「参勤」は大名が将軍に拝謁するために江戸に行くこと、「交代」は自分の領国に帰ることをいう。加賀藩の場合、1年間を在府(江戸)、次の1年間を在国(金沢)で、これをずっと繰り返した。
「参勤」は、古くは「参覲」の字を用いた。「覲」は音では“キン”、訓では“まみえる”と読むように、諸候が天子(大名が将軍)に会見するという意味である。

そもそも参勤交代とは大名にとって何だったのだろう。参勤は何も江戸時代に始まったものではなく以前からあった。秀吉の時代から徳川の時代に移行する過程で頻繁に行われるようになり、その目的は、時の権力者に拝謁して臣従を誓うとともに、自分の家の存続と領土を安堵(あんど)してもらうことにあった。ときには人質を差し出すこともあった。江戸幕府成立後も大坂の役で決着がつくまでは大坂城の秀頼に参勤した大名も多い。完全な徳川の世になってからは、今度は江戸参勤になびく。以前豊臣側寄りの大名などは特に気をつかったことだろう。
教科書では、参勤交代制度は「武家諸法度」の改定による寛永12年(1635)ということになっているが、参勤は外様大名を中心に以前より広く行われていたもので、制度化されたにすぎない。幕府側も、年がら年中全国から参勤に来られても対応に苦慮したのではないか。秩序化する必要があったのだ。したがって、参勤交代はもともと諸大名の自発的な行為であり、有力大名を弱体化させるための制度という一方的な見方は誤りである。結果として、莫大な支出が伴い各藩の財政を圧迫したという方が正しいだろう。

やがて参勤交代の大名行列は諸大名の見栄の張り合いのように派手になっていく。戦いのない平和な時代だから無理もない。他藩に負けてはならないと競争心が生まれ、家格に見合った大パフォーマンスを繰り広げたのが大名行列である。お金がかかろうと、藩の威信がかかっているのだ。そのエスカレートぶりに幕府は人数を減らす方針も出したが効果はあまりなかったようだ。

参勤交代は大名に財政的な負担を強いたが、街道も整備され、大きな経済効果をもたらした。生活に身近な食べ物や名物などの食文化はいち早く江戸に伝わっただろうし、その逆の江戸から地方へもさまざまな情報や文化が全国に伝わったことだろう。そういう歴史の延長線上に今の私たちはいる。昔2週間かかった金沢も今や北陸新幹線で2時間半。金沢や各地の名物でも食べながら乗るのも悪くない。新型車両「E7系」の車内は、金沢の伝統工芸をイメージさせるシックな雰囲気で迎えてくれる。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『図録 参勤交代』(石川県立歴史博物館)

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

赤門(重要文化財) 文政10年(1827)建造 文京区本郷7-3-1

江戸の加賀藩邸は、現在の東京大学。

赤門(あかもん)は東京大学のシンボルとなって広く知られている。東大は受験生にとって狭い門かもしれないが、この門は大きく広く格式が高い。東大(本郷キャンパス)がある場所は、加賀藩前田家の上屋敷跡だ。東大の正門は、また別にある。

一般に赤門と呼ばれるが、正式には「旧加賀屋敷御守殿門」。御守殿門(ごしゅでんもん)とは、将軍の娘が嫁ぐ先の住居の門をいう。加賀藩主前田斉泰が十一代将軍、徳川家斉の第21女、溶姫(やすひめ、ようひめ)を迎える際に加賀藩が建造した門である。朱塗りの門は将軍家から嫁を迎えたという証しで、前田家にとっては人々に知らしめる誇らしいものだったに違いない。

溶姫が第21女であるように、家斉はたいへんな子だくさんの将軍で、55人の子ども(男28人、女27人)をもうけている。次男の家慶は将軍に就くが、他の子どもの行き先が気になるところ。養子や嫁に出すにしても家格が重視される。加賀百万石の大大名に嫁がせるのは申し分ないだろうが、全てがそううまくはいかない。通常は、御三家、御三卿、有力大名との縁組みになる。相手もすでに継嗣がいたりして都合というものがあるだろう。言い方は悪いが、姫君はどうも、あちこちの大名に押し付けた感がある。嬉しいような、いや迷惑に思う大名も多かったことだろう。将軍もチャッカリしたものだ。

赤門が造られた時代は、「化政文化」と呼ばれる町人の文化が発展した華やかな頃、当時の人々は本郷を歩く度にこの赤門を眺めたことだろう。今は気軽に誰でも赤門をくぐることができる。内側からも見られ、観光客もよく訪れる。脇にある番所(警備や見張りをする番人が詰めた建物)の中は、以前は見学できたが今は非公開になってしまったのが残念である。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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