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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第1回 花のお江戸は、世界No.1の100万都市だった。
江戸名所図会
『江戸名所図会』
駿河町(現在は道の左側が三越本店、右側が三井住友銀行 日本橋支店) 

 いま、ちょっとした江戸ブーム。開府400年を迎えたこともあるし、これを機に江戸時代を振り返ってみるのも悪くない。現代人にとって、けっこう学ぶべきことが隠されていそうだ。第一、面白い話がいっぱい詰まっている時代である。

 江戸時代というと、時代劇のイメージからか、「切り捨て御免」という言葉があるように、お侍ばかりが威張りちらして、庶民は土下座したり、飢饉も多く、つらく暗い時代のように思われがちだが、実際はだいぶ違っているようだ。鎖国があったり、明治維新のキョーレツさがそんな気分にさせているのではないだろうか。
 とにかく江戸時代は、270年近くも続いたのだ。武士と町人がそれぞれ約50万人ずつ、こんなに人口を擁した都市は、この時代世界中に例がない。当時ヨーロッパ最大のロンドンでさえ、70万人というからその繁栄さがうかがえる。
 考えてみれば、他国を侵略しようとしたり、侵略されたり、国をあげての大きな戦争もなく、太平の時代であったのは事実である。もちろん、武士階級は山の手の広大な土地(江戸の約7割)に居を構え、町方は、下町(江戸の約2割)に住んでちょっと分が悪いのだが、それぞれが助け合って暮らしていたのである。
 そして、270年近くの間に江戸という都市は、だんだん機能を備えながら発展していった。政治が安定し、ゆっくりであるが、経済・文化が着実に発展していった時代なのである。

 この絵は、江戸でもっとも発展した商業地のひとつ、日本橋駿河町の様子。現代で言えば、ニューヨークの五番街といったところか。
 三井越後屋(三井呉服店)というのは、現在の三越だ。遠くに富士山が描かれている。この頃の絵は何でも富士山を入れるんだな、と勝手に思っていたら大違いで、当時実際に見えた。江戸時代は、通 りの向こうに富士山が見えるように町を造ったというから、泣かせてくれる。 発想がスゴイ。
 こういう大店舗を大店(おおだな)と呼んだ。当時こんな店で買い物をできた人たちは、さぞかし気分が良かっただろうと筆者は想像する。活気あふれる往来、実にいろんな人が歩いている。

 この時代、一般庶民は、いったい何を考え、どんなふうに暮らしていたのだろうか。お殿様の豪華絢爛な暮らしを知るのもいいけれど、一般庶民の暮らしをのぞいてここに紹介してみようと思う。そして、これからこの江戸の散策を一緒に楽しもう。

右上に続く >
   
ちょっと江戸知識「コラム江戸」
商屋のエンブレム、暖簾。
屋号入りの日よけ暖簾
屋号入りの日よけ暖簾
  暖簾は江戸以前からあったが、屋号などを染め抜いて使用するのが定着したのは江戸初期の寛永年間頃。以降看板と並び、商家になくてはならないものとなった。
  商人は暖簾を大切に扱い、誇りをもっていた。とくに大店(おおだな)にとっては、権威の象徴ですらあった。
 暖簾を作るのは染め物をする紺屋職人。屋号、家紋、商標などが入れられた。写真は一般的な大店の暖簾。これは「日よけ暖簾」や、風をはらむ形から「太鼓暖簾」と呼ばれたもの。店の広告であり、商品の日焼けを防いだり目隠しの役目をするのは今も同じである。
 暖簾がいかに重要なものであったかは、暖簾分けという言葉にも表れている。長年勤め上げた奉公人を、同じ屋号で独立させる慣習だ。これが店にとっても奉公人にとっても、そう簡単にはいかない。店の信用は暖簾にかかわるというわけである。暖簾や看板を維持していくことは、今も昔もたいへんだ。
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