水源から関口(現在の大滝橋の辺り)までは自然流を改修して利用し、関口で堰き止めて水位を上げ、神田川の北側にもう一本「白堀」といわれる素堀りの水路をつくった。そして、水戸邸内(現在の後楽園辺り)を通して、神田川を懸樋(かけひ)で渡した。これが「水道橋」だ。現在の水道橋の名前はここからきているが、当時はもう少し下流(お茶の水駅側)にあった。
江戸の発展はそれでも飲料水不足で、幕府は、承応3年(1654)に「玉川上水」を完成させた。水源を多摩川に求め、羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルの水路をつくり上げた。当時は、水は高い所から低い所へ流れるという自然流下式だから、工事も気の遠くなる話である。
神田川を渡った神田上水や、四谷大木戸へたどり着いた玉川上水は、地下に張り巡らされた木や竹、石製のいわば水道管を通って上水井戸に溜められた。それを桶で汲み上げて使ったのである。
湧き水や近くの小さな河川に飲料水を求めていた時代に、江戸という大都市の出現は、それなりの都市機能が必要だった。当時のロンドンでさえ、地上の小規模な人工水路で市内に給水していた頃である。「水道の水で産湯を使った」ことは、江戸っ子の自慢。それはそれとして、こんな水道を持っていた文化を、日本人は世界に向けてもっと自慢していいのではなかろうか…。
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