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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第5回 先進の都市、江戸には世界に誇る水道があった。
江戸名所図会
『江戸名所図会』
お茶の水 水道橋 神田上水掛樋(奧に見える橋が現在の水道橋辺りと思われる)
神田上水 概略図

 水源から関口(現在の大滝橋の辺り)までは自然流を改修して利用し、関口で堰き止めて水位を上げ、神田川の北側にもう一本「白堀」といわれる素堀りの水路をつくった。そして、水戸邸内(現在の後楽園辺り)を通して、神田川を懸樋(かけひ)で渡した。これが「水道橋」だ。現在の水道橋の名前はここからきているが、当時はもう少し下流(お茶の水駅側)にあった。

 江戸の発展はそれでも飲料水不足で、幕府は、承応3年(1654)に「玉川上水」を完成させた。水源を多摩川に求め、羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルの水路をつくり上げた。当時は、水は高い所から低い所へ流れるという自然流下式だから、工事も気の遠くなる話である。

 神田川を渡った神田上水や、四谷大木戸へたどり着いた玉川上水は、地下に張り巡らされた木や竹、石製のいわば水道管を通って上水井戸に溜められた。それを桶で汲み上げて使ったのである。

 湧き水や近くの小さな河川に飲料水を求めていた時代に、江戸という大都市の出現は、それなりの都市機能が必要だった。当時のロンドンでさえ、地上の小規模な人工水路で市内に給水していた頃である。「水道の水で産湯を使った」ことは、江戸っ子の自慢。それはそれとして、こんな水道を持っていた文化を、日本人は世界に向けてもっと自慢していいのではなかろうか…。

水道といっても、今のように台所で蛇口をひねって、水がジャーと出るということではもちろんない。江戸には初期から飲料水を確保するシステムがあった。水道。まさに水の道である。

 家康が江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)。しかし、一朝一夕にして開府したのではなく、天正18年(1590)頃からいろいろ準備を始めていたようだ。飲み水の確保のためだけではなく、洪水を防ぐために川の付けかえをしたりして、河川を整備した。治水は、幕府を開く開かないにかかわらず、城下町経営の上で必要だったということだろう。

 本格的な「神田上水」は寛永6年(1629)頃に完成し、江戸市中へ給水した。当時、江戸の都市造成は急ピッチで進んでいて、武家屋敷の急増、町人人口の増加など、飲料水の確保が急務だった。神田上水の主水源、井の頭池。現在のJR吉祥寺駅近くの井の頭恩賜公園にある。つまり、神田上水は、神田川を利用してつくられた。

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ちょっと江戸知識「コラム江戸」
「ひゃっこい、ひゃっこい」の冷水売り。
冷水売り
冷水売り(料金は一杯四文、注文によリ砂糖も入れた)
飲料水として神田上水や玉川上水ができても、江戸のすべてをカバーすることはできなかった。それなら井戸を掘ればいいじゃないかと思うかもしれないが、井戸掘り技術があまり進んでいない時代、とくに下町は海を埋め立てた場所が多く、少々の井戸を掘ったところで、塩気があって飲めるものではない。
 井戸水は、もっぱら洗濯や風呂、鮮魚を冷やすための冷し水のような生活用水として使われた。
 そこで登場するのが、物売りの一形態である「水売り」とか「冷水売り」である。「ひゃっこい、ひゃっこい」の売り声で売り歩いた。本当に冷たいかどうかは疑問。
 飲み水の行商人もいた。上水の届かない本所や深川地域には、上水の余り水を水船業者が水船に積んで運んだ。
 水が貴重であることに今も昔も変わりないが、当時の人々は、子どもたちに水の大切さを徹底して教え込んだという。現代人は忘れてしまっていないか、…反省。
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