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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第4回 隅田川花火大会、もとをただせば、慰霊祭。
江戸名所図会
『江戸名所図会』
両国橋(現在の中央区方面から墨田区方面を描いたもの)

 日本最古の花火大会は、享保18年(1733)から始まった『両国の花火』(現在の隅田川花火大会の前身)である。『鍵屋あーっ』、『玉屋あーっ』もここが発祥の地。鍵屋は両国橋の下流側、玉屋は上流側で花火を打ち上げた花火の製造元だ。両国の花火が全国に伝播し、現在各地の花火大会につながっていることを思えば、隅田川花火大会こそは、正真正銘の花火大会、格式の高い花火大会ということになりそうだ。

 暑い盛りの格式ある遊びと言えば、花火見物と切っても切れない川遊びがあげられる。屋形船を大川(隅田川)に浮かべて芸者をあげての大酒宴。月見もできるし、花火が上がれば興も増す。何と贅沢な納涼風景だろうか。しかし、これをできるのは富裕層だけだ。
 庶民は漁師の小舟にでも乗せてもらったのだろうか。『江戸名所図会』には屋根のあるものないもの、大小いろいろな船が描かれている。橋の上と川辺は、人でごった返している。

 両国の花火は第二次世界大戦など、何回か中断されたが、昭和53年(1978)に再開されて今日まで続いている。江戸時代と違って、現在は両国橋より上流の桜橋や駒形橋の付近が打ち上げ場所だ。名称も隅田川花火大会となった。

 なぜ両国で花火を上げたのか。それは、大川の川開きの行事のアトラクションとして採用されたからだ。

右上に続く >

 川開きということは、水神祭であり、悪疫退散を祈願するイベントである。折しも前年の享保17年(1732)は、関西では飢饉(ききん)があったり、江戸ではコレラが流行したりで、多くの死者を出していた。幕府は、慰霊のために花火を許可したのである。つまり、この花火大会は、天空高く花を咲かせて死者を弔う慰霊祭でもあったのだ。花火の経費は、船宿や料理屋が負担したという。
 幕府は、付近の船宿や食べ物屋の夜間営業も認め、夜店や屋台、見世物小屋なども許可した。期間限定で、川開きの5月28日から川じまいの8月28日(旧暦)まで。花火も納涼船も同じである。
 多くの人々を集めた両国の花火は、店の営業時間の規制緩和もして、結果的には経済改革でもあった。コレラの流行で厭世的になりつつある人々を元気づけたことも見逃せない。
 江戸幕府はときどき気の利いたことをしている。明暦3年(1657)の大火のときも、焼死者をまつる回向院(えこういん)を本所に造ってきちんと慰霊をしている。こういう政治は、江戸の庶民にも少なからず精神的な影響を与えてきたはずだ。

 慰霊や祭りという言葉を例にあげてもそうだが、日本人の精神構造部分の、重要なあるいは尊い気持ちは、ずっと昔から育まれ受け継がれてきたような気がする。花火を楽しむことは、本来、日本人の祈りの一形式なのである。

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
自然は、偉大なクーラーでもあった。
行水
行水(蚊取り用に青葉や木片を燃やした)
画/新道武司
いくら夏が暑いと言っても、コンクリートジャングルの現代のような暑さではなかったはずだ。打ち水をしたり、軒先にすだれを垂らしたりして暑さを凌いだ。
 お風呂は銭湯に相当する湯屋(ゆや)を利用した。裏庭のあるような家では行水もできたが、スペースがあまりない長屋の住民はどうしていたのだろう。気にかかるところだ。庶民が内湯を作ろうとしなかった理由は、井戸や薪などの経費面から維持ができなかったこともあるが、火災を恐れたからだとも言われている。
 夕涼みには、大川(隅田川)の川辺や不忍池の周辺を散歩しするのが一般的だ。谷中や王子などの蛍の名所もあって、庶民はそれなりに夕涼みを楽しんでいたようだ。
 風流な時代である。風鈴や虫の音に耳を傾けて涼を感じた。今の東京で、虫売りや朝顔売りなどが出歩いたらどうだろう。風流と感じるのだろうか、それともウルサイと苦情が出るのだろうか…。たぶん後者だろうけど。
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