外食産業のはしりは、江戸の町にあったと言っていいだろう。食べ物屋のような形態の店ができ始めて、いろいろなタイプの店が増えていく。享保年間(1716~1736)には、庶民も外食を楽しめるようになったようだ。将軍吉宗の時代である。もちろん、うどんやそばは、もっと早い時代からあった。
30年後の宝暦年間(1751~1764)には、「煮売り屋」や「煮売り酒屋」が登場。当時のメニューには、おすいもの、煮さかな、さしみ、なべやき…と、いろいろ豊富だ。その他に、たけのこめし、おでん、てんぷら、握りずし、うなぎの蒲焼きなどが、庶民の外食だった。「一膳飯屋」や「お茶漬け屋」、「どじょう汁屋」も登場して外食産業は、ますます活況を呈してくる。これらは、大衆酒場的な店でもあり、食べたり、飲んだり、煙管(きせる)でたばこを楽しんだり、けっこう気楽な場所のようだ。
お酒は当時、一般的に燗で飲まれた。『ちろり』で温めて杯に注ぐ。お茶を飲むときの急須を深くしたような容器だ。もちろん、お銚子も広く使われていた。
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ファミレスと文頭に書いてしまったが、多くの資料で煮売り酒屋の挿絵を眺めてみたところ、家族揃って食事をしている絵が見当たらない。圧倒的に男の客が多い。男女のカップルもあれば、合コン風景のようなものもある。しかし、子どもが描かれていない。なぜだろう? 金銭的にもそう負担ではない庶民の外食、筆者なら家族で行きたいところだが…。きっと、江戸時代の家族の関係と現代とでは、だいぶ違っているのだろう。
それだけでなく、江戸の町の構成員を考えたならば、大きな理由に気づく。やはり、男が多く男社会だったからだ。地方からの単身赴任の武士をはじめ、労働者も地方からやってくる。単身者の人口が増えるということは、外食需要も増える。そして、一大市場が形成されていく。
高級料亭ももちろんあった。広重にも描かれた『八百善』は特に有名で、大商人や文人墨客たちの社交の場だ。残念ながら、一般庶民には無縁の場所であったことは言うまでもない。
最後に、今でも食べられる庶民の味を紹介しておこう。『深川めし』だ。味は濃いが、これが実にうまい。アサリのむき身、ネギ、油揚げなどを味噌で煮て、炊きたてのごはんに混ぜた料理である。当時は江戸前のアサリがたくさんとれた。もともとは、江戸っ子らしい気ぜわしい食べ方で、これが流行っていたらしい。深川に行けば食べられる店が数店ある。読者も一度お試しあれ。
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