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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第8回 年の瀬の江戸の町、餅つきが商売になった。
東都歳事記
『東都歳事記』
歳暮交加図(年末の表通り/右下の紋入りの荷物は、大名が用意する正月用の贈答品だと思われる)

 誰もかもが忙しいと相場が決まっている年の暮れ。江戸庶民もまた、いろいろやることがあって忙しかったようだ。『東都歳事記』からは、その季節独特の江戸の暮らしが見えてきて面白い。

 餅つきは、現代なら町内のイベントにもなるだろうが、この時代は当たり前の光景だ。でも、何でまた路上なんかで餅をついているのだろう。人の多い埃っぽい大通りで、大きな釜まで出してわざわざやらなくてもよさそうなものだが…。

 往来のなかで餅をつくには訳がある。それがビジネスであったことだ。暮れも押し迫ってくると、江戸の町には「餅つき屋」なる職人?が数多く出現するのだ。だから営業していることを知らしめるために往来でやる必要があった。「餅つき屋」と書いてしまったが、現実には職業としては成立しない。だから、筆者が便宜上つけた名称であることをお断りしておく。
 この餅つき風景は、表通りに面している商家が、餅つき屋に依頼して、ついてもらっているところだと考えられる。店先で景気づけに餅をつくという意味もあったのかもしれない。

では、どんな人がこの餅つき屋をやったのか。それは舂米屋(つきまいや) だと思われる。今のお米屋さんのことだ。舂米屋の年末の仕事として、従業員が出張したと思えば想像しやすい。かなりの需要があったはずたから、普段は別の仕事をやっていて、ちゃっかりバイトをやった人も相当いたのではないだろうか。

右上に続く >

 餅つき屋のイメージを紹介すると、きっぷのいい二人組みで、一人は杵を担ぎ、もう一人は臼を担ぐといった風体である。注文に応じて担いで移動する商売である。かなりたいへんな仕事だ。それに誰でも餅をつけるものでもない。筆者の経験から言わせてもらうと、力も必要だが、コツを要するものだ。それに二人の呼吸が合わないと話しにならない。だからこそ、餅つき屋が登場したのだろう。

 時節柄、門松売りもやってくる。馬の背に松を乗せて運んでいる人、担ぐ人…。大店(おおだな)の立派な門松は、鳶(とび)職が商売した。鳶は町火消も兼ねていた関係から、鳶の親方は大店や大家に顔がきき、門松設置の特権があった。当時の門松は、松を束ねて軒先に立て掛けた。まるで打ち上げ花火のようなデザインだ。
 庶民は、松の枝を一本家の入口につける程度であったかもしれないが、門松を飾る文化は、しっかり根付いている。大名も商人も長屋の住民も、すす払いをして大掃除。神棚をきれいにして、門松を飾り、新年を迎える運びとなる

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
店中の尻で大家は餅をつき。
長屋のトイレ
長屋のトイレ(戸を閉めた状態でも上半分は開いている)
 餅と長屋のトイレには密接な関係があった。というか、もっと正確にいうと、この共同トイレの糞尿のおかげで、長屋の住民は餅を食べることができたのである。食べ物と糞尿を一緒に書くのは、ちょっとためらいもあるが、事実だからしょうがない。
 糞尿は、江戸近郊の農家が買っていった。化学肥料のなかった時代の人間の排泄物は貴重な肥料で、下肥(しもごえ)として使われたのである。したがって、代金は農家が長屋の管理人である大家に払った。現金の場合も農作物の場合もある。お金の流れが現代と逆である。しかも、無駄のない循環システムだ。
 この代金で、大家は店子に餅を振る舞うのが毎年恒例だったという。長屋の住民にとっても、餅は正月の必需品であり、「餅つき屋」を頼むほど金銭的に余裕もないから、助かった。タイトルは『柳多留』にある川柳である。“尻もちをつく”という表現は、ここに始まった?
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