誰もかもが忙しいと相場が決まっている年の暮れ。江戸庶民もまた、いろいろやることがあって忙しかったようだ。『東都歳事記』からは、その季節独特の江戸の暮らしが見えてきて面白い。
餅つきは、現代なら町内のイベントにもなるだろうが、この時代は当たり前の光景だ。でも、何でまた路上なんかで餅をついているのだろう。人の多い埃っぽい大通りで、大きな釜まで出してわざわざやらなくてもよさそうなものだが…。
往来のなかで餅をつくには訳がある。それがビジネスであったことだ。暮れも押し迫ってくると、江戸の町には「餅つき屋」なる職人?が数多く出現するのだ。だから営業していることを知らしめるために往来でやる必要があった。「餅つき屋」と書いてしまったが、現実には職業としては成立しない。だから、筆者が便宜上つけた名称であることをお断りしておく。
この餅つき風景は、表通りに面している商家が、餅つき屋に依頼して、ついてもらっているところだと考えられる。店先で景気づけに餅をつくという意味もあったのかもしれない。
では、どんな人がこの餅つき屋をやったのか。それは舂米屋(つきまいや) だと思われる。今のお米屋さんのことだ。舂米屋の年末の仕事として、従業員が出張したと思えば想像しやすい。かなりの需要があったはずたから、普段は別の仕事をやっていて、ちゃっかりバイトをやった人も相当いたのではないだろうか。
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餅つき屋のイメージを紹介すると、きっぷのいい二人組みで、一人は杵を担ぎ、もう一人は臼を担ぐといった風体である。注文に応じて担いで移動する商売である。かなりたいへんな仕事だ。それに誰でも餅をつけるものでもない。筆者の経験から言わせてもらうと、力も必要だが、コツを要するものだ。それに二人の呼吸が合わないと話しにならない。だからこそ、餅つき屋が登場したのだろう。
時節柄、門松売りもやってくる。馬の背に松を乗せて運んでいる人、担ぐ人…。大店(おおだな)の立派な門松は、鳶(とび)職が商売した。鳶は町火消も兼ねていた関係から、鳶の親方は大店や大家に顔がきき、門松設置の特権があった。当時の門松は、松を束ねて軒先に立て掛けた。まるで打ち上げ花火のようなデザインだ。
庶民は、松の枝を一本家の入口につける程度であったかもしれないが、門松を飾る文化は、しっかり根付いている。大名も商人も長屋の住民も、すす払いをして大掃除。神棚をきれいにして、門松を飾り、新年を迎える運びとなる
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