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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
第9回 火の用心、火の用心。それでも火事が多かった。
江戸名所図会
『江戸名所図会』
馬喰町馬場(中央の建物が火の見櫓、高さは約9メートル)

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、火事は実際、深刻である。市中が灰と化してしまう。江戸の町は、とにかく燃えた。なぜそんなに火事が多かったか。話しは簡単。100万の人口を飲み込んだ大都会の江戸は、密集地であったこと、木造であったことだ。さらに冬の「からっ風」も相当なもので、いったん火が出れば、みるみる燃え広がることとなった。

 江戸最大の火事は、明暦3年(1657)1月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した「明暦の大火」である。別名、いわく付きの振袖を燃やしたことに端を発する「振袖火事」だ。火元は諸説あるが…。
 強風に煽られて火の手は広がり、江戸の大半を焼き尽くした。大名屋敷や旗本屋敷、商家や長屋も、寺社も橋も燃えた。江戸城天守閣はこの火事で焼け落ちたのである。湯島天神や神田明神、歌舞伎の中村座や市村座、遊郭の吉原もみな燃えた。
 死者10万人以上。この数字はただごとではない。江戸時代には、何百人・何千人の焼死者が出る火事が、頻繁に発生している。

 幕府もいろいろ対策を講じた。「定火消(じょうびけし)」という消火組織をつくったり、火の見櫓の設置を義務づけたりした。焼け跡には、火除地(ひよけち)と呼ばれる空き地を設けて次の火事に備えた。現在も○○広小路という地名が残っているが、これはかつて火除地だった場所である。

右上に続く >

 江戸中期には自衛消防組織、いろは四十八組の「町火消(まちびけし)」が登場。「へ、は、ひ、ん」の4文字はちょっと具合が悪いので、「百、千、万、本」を用いた。確かに「め組の喧嘩」なら威勢いいけど、「へ組の喧嘩」じゃサマにならない。

 有名な火事をもう一つ。天和2年(1682)の「お七火事」だ。…お七は年頃の八百屋のお嬢さん。火事で家が燃えてしまったため、家族揃って、お寺で避難生活をしていたが、そこで彼氏ができた。しばらくして家が普請されたので、戻ってはみたが、彼氏が恋しくてしょうがない。そんな彼女をそそのかした悪友がいた。『また火事になれば、再会できるよ』。お七は、出来上がったばかりの家に放火してしまう。…だいたいこんなストーリーだ。結局、お七は放火犯として市中引き廻しの上、火あぶりの刑。まさに、恋に身を焦がした悲恋の物語だ。お七火事は1,000人近くの死者を出した大火だったが、どこまでがお七の放火によるものかは不明である。彼女の名誉のためにも念のためお断りしておきたい。

 お七の恋人は、「お七地蔵」を建てて生涯菩提を弔ったという。現在、目黒区の大円寺にある。大田区の密厳院にも「お七地蔵」がある。どちらも御利益は縁結びだそうだ。

ちょっと江戸知識「コラム江戸」
火事で景気がよくなった皮肉な話。
天水桶
天水桶(水を汲み出すための手桶を上部に積んだ)
 長屋の住人たちは結束力があるから、ボヤ程度のもの なら一致団結して消火にあたった。雨水を満たした天水 桶(てんすいおけ)が消火用にいつも用意されていたし、共同の井戸だってある。しかし、手に負えない火事の場 合は話が違う。これはもう逃げるしかない。
 長屋に火事の一報が入ると、若い者が火の上がった場 所と風向きを確認しに走る。その情報を待って、全員身 支度を整え避難開始。身支度といっても、鍋・釜・茶碗に布団といったところだ。もともと大した家財道具もないから、早いものだ。それに、ある意味気楽だった。
 なぜなら、家は自分のものでもないし、今月の家賃はタダになる。火事のあとは、復興のために職人の手間賃がぐんとアップする。考えてみれば、長屋の住人は職人が多い。火事後の特需、さあがんばろうと気合いが入る。
 燃えては町をつくり、また燃えては町をつくった江戸時代。すぐ立ち直る江戸のパワーは見事という外ない。
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