「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、火事は実際、深刻である。市中が灰と化してしまう。江戸の町は、とにかく燃えた。なぜそんなに火事が多かったか。話しは簡単。100万の人口を飲み込んだ大都会の江戸は、密集地であったこと、木造であったことだ。さらに冬の「からっ風」も相当なもので、いったん火が出れば、みるみる燃え広がることとなった。
江戸最大の火事は、明暦3年(1657)1月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した「明暦の大火」である。別名、いわく付きの振袖を燃やしたことに端を発する「振袖火事」だ。火元は諸説あるが…。
強風に煽られて火の手は広がり、江戸の大半を焼き尽くした。大名屋敷や旗本屋敷、商家や長屋も、寺社も橋も燃えた。江戸城天守閣はこの火事で焼け落ちたのである。湯島天神や神田明神、歌舞伎の中村座や市村座、遊郭の吉原もみな燃えた。
死者10万人以上。この数字はただごとではない。江戸時代には、何百人・何千人の焼死者が出る火事が、頻繁に発生している。
幕府もいろいろ対策を講じた。「定火消(じょうびけし)」という消火組織をつくったり、火の見櫓の設置を義務づけたりした。焼け跡には、火除地(ひよけち)と呼ばれる空き地を設けて次の火事に備えた。現在も○○広小路という地名が残っているが、これはかつて火除地だった場所である。
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江戸中期には自衛消防組織、いろは四十八組の「町火消(まちびけし)」が登場。「へ、は、ひ、ん」の4文字はちょっと具合が悪いので、「百、千、万、本」を用いた。確かに「め組の喧嘩」なら威勢いいけど、「へ組の喧嘩」じゃサマにならない。
有名な火事をもう一つ。天和2年(1682)の「お七火事」だ。…お七は年頃の八百屋のお嬢さん。火事で家が燃えてしまったため、家族揃って、お寺で避難生活をしていたが、そこで彼氏ができた。しばらくして家が普請されたので、戻ってはみたが、彼氏が恋しくてしょうがない。そんな彼女をそそのかした悪友がいた。『また火事になれば、再会できるよ』。お七は、出来上がったばかりの家に放火してしまう。…だいたいこんなストーリーだ。結局、お七は放火犯として市中引き廻しの上、火あぶりの刑。まさに、恋に身を焦がした悲恋の物語だ。お七火事は1,000人近くの死者を出した大火だったが、どこまでがお七の放火によるものかは不明である。彼女の名誉のためにも念のためお断りしておきたい。
お七の恋人は、「お七地蔵」を建てて生涯菩提を弔ったという。現在、目黒区の大円寺にある。大田区の密厳院にも「お七地蔵」がある。どちらも御利益は縁結びだそうだ。
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