祭はまつりごと、つまり政治につながっているから、時の覇権者・為政者は有力寺社と無関係ではいられない。徳川将軍も例外ではなかった。江戸時代、諏訪大社には徳川家をはじめ、諏訪高島藩主、諸国大名からの寄進・奉納が相次いだ。地元の諏訪高島藩には、祭をつつがなく遂行するために御柱奉行まで置かれていた。それだけでも御柱祭がただの祭でなかったことが分かる。
諏訪大社は諏訪湖をはさんで南に上社、北に下社がある。さらに上社には「本宮」と「前宮」があり、下社には「秋宮」と「春宮」がある。この四つの宮の総称が諏訪大社だ。
慶長13年(1608)、徳川家康の寄進よる四脚門(重要文化財)が本宮に残っている。三代将軍家光は、上社に社領千石、下社に五百石を寄進。以下歴代将軍はずっとこれを継承し、幕末に至っている。
徳川家がなぜこれほど諏訪大社と関係をもち続けたのか。下社秋宮が甲州街道と中山道が交わる交通の要衝であったことにもよるが、最大の理由は諏訪大社が、戦いの神であったからだ。
祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)。建御名方神は古来より武勇の神、武将の守護神として信仰されてきた。『諏訪大社
由緒略誌』は、社領を寄進・神宝を奉納し、武運の長久と国家の安泰を祈願した武将として、源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康等の名前をあげている。なかでも武田信玄は、信仰厚く戦乱期に衰退した祭事を復活させた。
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御柱祭の正式な名称は、「式年造営御柱大祭(しきねんぞうえいみはしらたいさい)」。御柱祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代のようだ。祭を簡単に言ってしまえば、原生林から切り出した10トンもあるモミの巨木を氏子たちが力を合わせ何日もかけて引きずってきて、社(やしろ)の四隅に建てるというものである。
信州諏訪地方の氏子たちは、天下の奇祭と呼ばれるこの祭を七年に一度、千数百年前からやってきた。いくさや戦争があっても、世の中の状況がどうであれ、何を言われようが続けてきたのである。祭を楽しむというよりは、氏子が一致団結する奉仕行為であったと思う。実は、筆者は諏訪で生まれ育った氏子(玉川)である。
「木落し」や「川越し」のシーンをテレビでご覧になられた方も多いだろうが、祭のフィナーレを飾る「建て御柱(たておんばしら)」もまた壮観だ。御神木となって立ち上がる瞬間である。御柱を曳行(えいこう)した氏子にとって、体中に熱く満ちてくるものを感じたのはきっと筆者だけではなかっただろう。
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