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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
コラム江戸
第32回 煤払いは、新年を迎えるための行事だった。
『東都歳事記』商家煤掃 (しょうかすすはらい)
『東都歳事記』商家煤掃 (しょうかすすはらい)

「煤払い(すすはらい)」は、「煤掃き(すすはき)」とも言った。現代ではどちらもあまり耳にする言葉ではない。それもそのはず、煤というものがほとんど出ない生活スタイルになったからだ。江戸時代だけでなく、火をつかう日本家屋では例外なく煤がたまった。電気やガスが普及する前までは、この時季どの家でも天井の煤払いをやっていたのである。
毎日の炊事には薪や炭を使う。竈(かまど)もあれば、囲炉裏(いろり)もある。照明用のロウソク、油からも煤が出る。暖房用の火鉢、夏の虫除けには蚊遣り(かやり)の中で青葉や木片を燃やしていた。江戸城から長屋に至るまで煤払いをしたのだった。

煤払いは、年末の大掃除に相当するが、単に生活上必要に迫られてするような行為ではなかった。新年を迎えるに当たっての、お清めの儀式のようなものだった。一年間たまった煤やほこり、穢(けが)れを払う伝統的な神事と言っていい。正月の準備に注連縄(しめなわ)を張ったり、松を飾ったりするには、まず家中をきれいにしないといけないわけだ。煤払いには、先に葉を残した状態の竹、笹や藁(わら)を竹竿の先に束ねてくくりつけたものを使った。これで煤を払ったり掃いたりした。

とまあ、理屈はさておき、この図の煤払いの様子はいかにも楽しそうである。いつも感心してしまうのだが、江戸人はやらなくてはいけない行事も、いとも簡単に楽しくこなす能力を持ち備えている。神事をお祭りやイベントにしてしまうのだ。
「商家煤掃」と題されているように、この図会は大店(おおだな)、つまり大商人の家の煤払いだ。使用人をはじめ、商家に出入りしている鳶職人などが作業をするのが慣わしである。左下では威勢よく煤払いをしている様子。その上の間では、もう作業が一段落したのか蕎麦をすすりながら宴会気分の人たちも。右上では踏み台の上で竹ぼうきを持って踊っている者。なぜか胴上げをしている人たちもいる。江戸学の祖、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)氏の研究によれば、大奥でも煤払いの後、奧女中が胴上げをしたとある。胴上げと煤払いの関係はよく分からない。特別な意味があるのだろうか。
左上の路上には煤払い用の竹の行商人。その横に積まれたままの畳。ということは、煤払いはまだ途中だ。早朝から大勢で、丸一日かけて楽しみながら煤払いをする雰囲気である。

煤払いの日は江戸中12月13日と決まっていた。この日に江戸城で煤払いをやっていたからで、庶民もこれにならった。これが済むと、明日からは正月用品を買い求める歳(年)の市が始まる。

虫売りの屋台(担いで虫の声を叫びながら売り歩く)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
『北斎絵事典 人物編』餅つき(永田生慈 監修/東京美術刊)
年末の大江戸八百八町は杵の音。

12月15日から年末にかけて、江戸はあちこち餅つきの音で賑やかだった。ただし、29日だけは遠慮したようである。29の9は苦に通じ、苦をつく行為が嫌われたことによる。この慣習は現代も残っているようだ。
餅は武家も町民も正月の必需品であるばかりか、江戸人の大好物だったらしく、餅屋は繁盛した。
餅を買い求めるには、15日までに餅屋に前もって注文しておく方法と、餅をつきに出向いてもらう方法の2種類があった。前者を「賃餅(ちんもち)」、後者を「引摺餅(ひきずりもち)」と言う。餅をつきに来るのは、餅屋が注文に追われていて忙しいので、舂米屋(つきまいや)である米屋とか、商家なら出入りの鳶・左官たちである。
賃餅よりも引摺餅のほうが体裁もよく、いわゆる粋で恰好が良かった。自宅の軒下での餅つきは、ステイタスであり、周囲へのパフォーマンスでもあった。江戸っ子はやはり見栄っ張りである。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館、葛飾北斎美術館
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