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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
コラム江戸
第33回 元旦の江戸城お堀端の様子を想像してみよう。
『江戸名所図会』元旦諸侯登城之図(向こう側の大名屋敷門前には一対の門松が立てられている)
『江戸名所図会』元旦諸侯登城之図(向こう側の大名屋敷門前には一対の門松が立てられている)

これは徳川将軍への拝賀の礼、つまり新年のご挨拶に出かける大名行列の風景である。一般に「元旦登城」と呼ばれているものだ。行列は、それぞれの国元から元旦めがけてやってくるわけではなく、江戸の大名屋敷から態勢を整えて当日登城した。元旦登城の時間は卯半刻(午前7時頃)となっていて、一斉に集合したことになる。
なにもまあ、朝早くからこんなに仰々しくやらなくてもよさそうなものだが、そこが武士の世界ということか。大勢で出かけたところで将軍に謁見できるのは大名とせいぜいその側近くらいだろう。それでも大名はその格に見合った、それなりの行列を整えなければならなかったし、人が足りなければ日雇いのアルバイトを採用したくらい元旦登城は重要な儀式だったのである。

拝賀の礼は、正月三が日の間で、位の高さによって日が決められていた。元旦にはまず、御三家(尾張、紀伊、水戸家)、御三卿(田安、一橋、清水家)の他、譜代大名や前田家(加賀)などが拝礼した。
 大名と一口に言っても260以上もあるのだから、大変な数である。それに、登城して拝礼するのは大名だけではない。御三家・御三卿の嫡子や高位の役人、医師、有力町人などもいる。将軍も、そう簡単にこなせる数ではないことは明白である。諸大名も大変だったけど、将軍もまた大変だった。

大名の登城口は大手門と内桜田門(現在の桔梗門)の2カ所。その門前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的はここで馬や駕籠から下りて歩いて入城する。その先には「下乗所」があり、格式の高い大名はここで下りる。老齢の大名もここまで駕籠に乗ってくることが許された。いずれにしてもその先の玄関までは歩かなくてはならない。ほとんどのお供の者は「下馬所」までで、そこの広場のような所で、ずっと殿様のお帰りを待ちながら暇をつぶした。

三が日のお堀端は、諸大名のお供の群衆で混雑していた。主人を送った後は気楽な時間。飲食する者や寝転がっている者、賭け事のような遊びをしている様子の絵も残っている。そんな客を目当てに棒手振(ぼてふり)商人もやってきたし、二八そばの屋台も出た。
さらに、この登城風景を見物する民衆が出た。あの行列がどこどこの殿様などと江戸っ子は面白がって眺めていたのだろう。
ここで注目すべき点は、お堀端が厳戒態勢でなかったことだ。武器を携えた侍たちが江戸城をぐるりと囲んでいるにもかかわらず、緊張感がまるでない。それにお堀端には一般庶民が自由にやって来れた。江戸の名所に数えられたほどである。為政者が居住する周辺でのこののんびりムードは、歴史的にもあまり例がない。

大店の門松(門松や注連飾りは町内の鳶が作った)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
大店の門松(門松や注連飾りは町内の鳶が作った)
門松を立てるにはわけがある。

まるで打ち上げ花火のようなデザインの門松。4、5メートルもある竹を葉をつけたまま束ねて、周りに松を飾り、土台は薪でしっかり囲む。高さは軒より高くなり、気取りのないダイナミックな門松である。
このようなデザインの門松は、武家の屋敷や大店で好まれた。その他にも、松と竹を飾るという点では同じでも、門松の飾り方は数多くあり、職業によっても地域によっても違っていたようである。竹の葉を削いだもの、さらに斜めに切ったもの(医師に多い飾り方)など、松の飾り方もいろいろデザインがあり趣も異なる。
お正月は本来、歳神様を迎え入れる行事。門松は歳神様の依代(よりしろ)と考えられていた。松を使うのは、古来より神様は常緑樹に宿るとされていたからである。
門松は歳神様が降臨する際の目印で、迎えて祝うのが正月だった。「どんど焼き」という行事は、今度は歳神様を煙に乗せて送るための儀式である。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
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