これは徳川将軍への拝賀の礼、つまり新年のご挨拶に出かける大名行列の風景である。一般に「元旦登城」と呼ばれているものだ。行列は、それぞれの国元から元旦めがけてやってくるわけではなく、江戸の大名屋敷から態勢を整えて当日登城した。元旦登城の時間は卯半刻(午前7時頃)となっていて、一斉に集合したことになる。
なにもまあ、朝早くからこんなに仰々しくやらなくてもよさそうなものだが、そこが武士の世界ということか。大勢で出かけたところで将軍に謁見できるのは大名とせいぜいその側近くらいだろう。それでも大名はその格に見合った、それなりの行列を整えなければならなかったし、人が足りなければ日雇いのアルバイトを採用したくらい元旦登城は重要な儀式だったのである。
拝賀の礼は、正月三が日の間で、位の高さによって日が決められていた。元旦にはまず、御三家(尾張、紀伊、水戸家)、御三卿(田安、一橋、清水家)の他、譜代大名や前田家(加賀)などが拝礼した。
大名と一口に言っても260以上もあるのだから、大変な数である。それに、登城して拝礼するのは大名だけではない。御三家・御三卿の嫡子や高位の役人、医師、有力町人などもいる。将軍も、そう簡単にこなせる数ではないことは明白である。諸大名も大変だったけど、将軍もまた大変だった。
大名の登城口は大手門と内桜田門(現在の桔梗門)の2カ所。その門前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的はここで馬や駕籠から下りて歩いて入城する。その先には「下乗所」があり、格式の高い大名はここで下りる。老齢の大名もここまで駕籠に乗ってくることが許された。いずれにしてもその先の玄関までは歩かなくてはならない。ほとんどのお供の者は「下馬所」までで、そこの広場のような所で、ずっと殿様のお帰りを待ちながら暇をつぶした。
三が日のお堀端は、諸大名のお供の群衆で混雑していた。主人を送った後は気楽な時間。飲食する者や寝転がっている者、賭け事のような遊びをしている様子の絵も残っている。そんな客を目当てに棒手振(ぼてふり)商人もやってきたし、二八そばの屋台も出た。
さらに、この登城風景を見物する民衆が出た。あの行列がどこどこの殿様などと江戸っ子は面白がって眺めていたのだろう。
ここで注目すべき点は、お堀端が厳戒態勢でなかったことだ。武器を携えた侍たちが江戸城をぐるりと囲んでいるにもかかわらず、緊張感がまるでない。それにお堀端には一般庶民が自由にやって来れた。江戸の名所に数えられたほどである。為政者が居住する周辺でのこののんびりムードは、歴史的にもあまり例がない。
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