晩春から初夏にかけての行楽として、潮干狩りは人気があった。遊びながらアサリや蛤などの食材を入手できるのだから、楽しいはずである。今のように、浜に出るのに入場料なんてないし、前夜に業者が貝をバラまくなんていう無粋なこともあるはずもない。
旧暦の3月3日頃(新暦の4月上旬)がもっとも潮干狩りに適していた。それはこの頃が潮の干満が大きい「大潮」となるからだ。秋にも「大潮」はあるが、このときは潮が引くのが深夜になってしまうので、チャンスは春しかなかった。そこで、シーズン到来とともに江戸の人々は、こぞって出かけたのである。
では、どこで江戸の人々は潮干狩りをしたのか。『東都歳事記』では芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などの名所を紹介している。このうち品川と深川洲崎は風景も良かったためか、とくに有名だった。品川は海辺の宿場町として栄え、行楽客も多く人気のスポットだったからだろう。この「品川汐干」は『江戸名所図会』のものだが、有名な『東海道五十三次 品川
日之出』を描いた歌川広重も、他に品川の潮干狩りを題材にした浮世絵を残している。
この潮干狩りの様子から想像してみると…。当日は早起きをして、家族や近所の人たちと一緒に出かけることになる。弁当や酒肴を持参して一日かけて楽しむ行楽だ。まず船着き場から沖へ船を繰り出し、そのまま潮が引くのを待つ。すると、『東都歳事記』に書かれているように『卯の刻過ぎより引き始めて午の半刻には海底陸地と変ず、ここに降り立ちて、蠣(かき)蛤(はまぐり)を拾い、砂中の平目をふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり』ということになる(卯の刻は午前6時頃、午の刻は12時頃)。
のんびりしていて楽しそうである。収穫量も期待できたらしく、遠浅の海を、かなり沖まで行ったのではないだろうか。この図会をよく見ると、船の大きさと海の深さからして座礁していると思われる方もいるだろう。きっと、潮が引いて動けなくなっている状況に違いない。しかし、何も問題はない。午後から夕方にかけて、また潮が満ちてきて、平底の船は再び浮き上がり航行可能になる。のんきな話だが、その時まで潮干狩りを存分に楽しめばいいのだ。
船の中で宴会をやっている男たち、浜では貝を拾う人、蟹と戯れる子ども、向こう側には浅くなった海をさらって貝を採っている男もいる。女性も着物の裾を上げて潮干狩りに夢中になったようだ。
とにかく、アサリや蛤がザクザク採れた。運が良ければ平目も発見できたし、潮が引いた後に魚が残る場合もある。この季節は花見もいいけど、収穫物のある潮干狩りも捨てがたい。
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