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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
コラム江戸
第36回 端午(たんご)の節句の「午」は「五」の洒落だった。
『東都歳事記』端午市井図(たんごしせいのず) 粽売り(下部)や柏餅を道に落としてしまった男もいる
『東都歳事記』端午市井図(たんごしせいのず) 粽売り(下部)や柏餅を道に落としてしまった男もいる

端午の節句には、蘊蓄(うんちく)がいっぱいあるので、覚えておくと面白い。なぜ五月五日なのか、なぜ甲冑や五月人形を飾り、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入り、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べるのか。なぜか鯉は空を泳ぐようにもなった。…不思議なことが多い。このような風習は、江戸時代に広まったといっていい。言い伝えられていることを紹介しながら、想像をふくらませてみよう。

「端午」の“端”は初めの意で、“午”はうまの意。つまり最初の午の日という意味である。それなら「初午(はつうま)」という言葉はどうなるのか、とおっしゃる方もいるはずだ。「初午」は明らかに5月より前である。端午の節句が五月五日になったのは、午は「うま」であると同時に「ご」であるから、「五」であるという単純な話で恐れ入る。いずれにしても江戸幕府が決めたことなので、そうなった。へ理屈をこねるなら、最初に「ご」がつく月は当然5月、日は(5日、15日、25日のうち)5日ということだろう。

奈良、平安の時代から端午の節句の風習はあったようだ。これは武人と密接に結びついていて、戦う勇敢な男子を想起させる。鎧(よろい)・兜(かぶと)を飾り、幟(のぼり)を立て、尚武(しょうぶ)、つまり武をとうとぶ気風である。尚武は菖蒲につながり、菖蒲の薬効で邪気を祓い、いざ勝負ということになる。「端午市井図」の真ん中あたりの二人の子どもは、菖蒲刀(菖蒲を刀にみたてた玩具)でチャンバラごっこをしているところだ。
江戸時代はたいした戦いもなく、安定した社会であったためか、端午の節句は武家階層だけでなく町人階層にも浸透し、男児の壮健を願う行事に変わっていく。娯楽化し、イベント化し、ビジネスにもなっていった。この図の道の向こう側は、武者人形を売る店。店先では幟や長刀(なぎなた)、吹き流しなども売っている。
手前の旗に描かれた恐ろしげな男は、「鍾馗(しょうき)」という。中国の唐の時代、玄宗皇帝の夢の中で病魔を退治し、すっかり病気を治してくれたという伝説の人物である。

餅は餅でも柏餅を食べるのは、柏の葉は次の新しい芽が出て来るまで古い葉が落ちないということから、子孫繁栄の縁起をかついだもので江戸時代に始まった風習だ。
粽は笹で包んだ餅だが、紀元前の中国の伝説が発端となっている。非業の死を遂げた楚(そ)の国の詩人・政治家である屈原(くつげん)を弔うための供物に粽が用いられたことによる。粽には悪魔を祓う霊力があるとされ、現在も中国湖北省では命日に粽を川に投げる祭が毎年行われている。その命日は何と、五月五日というできた話だ。

鯉のぼり売りと吹き流しの鯉のぼり『東都歳事記 部分』
ちょっと江戸知識 コラム江戸
鯉のぼり売りと吹き流しの鯉のぼり『東都歳事記 部分』
鯉幟(こいのぼり)の発想は、日本独自のもの。

最初の鯉のぼりは、今ほど大きくはなかった。小さな紙のぼりのようなもので、木版刷りの鯉の絵柄を貼り合わせて、棒の先に糸でくくりつけた簡単なものだ。長屋の路地では、男の子たちがこんな鯉のぼりを手に持って走り回っていたのではないだろうか。
ミニ鯉のぼりが登場したのは江戸中期、だんだん巨大化していった。武家では家紋を幟に染め抜いたり、鍾馗(しょうき)像や武者絵を描いた幟を好んで立てた。それに対抗して財力をつけた商人層が「俺たちも、大きな鯉のぼりを立て、一丁派手にやろうじゃないか」くらいのノリで始まったのが、案外当たっているのかもしれない。
鯉である理由は、中国の「登竜門」の故事による。竜門という難関の急流を越えた魚は鯉だけだったという故事で、鯉は出世魚であるからだ。だから、今も鯉のぼりは、子どもの立身出世を夢見る親たちの願いを一気に背負って、一生懸命空を泳いでいるのである。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
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