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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館、株式会社 人文社
コラム江戸
第38回 隅田川河口に浮かぶ、石川島、佃島、月島の物語。
『御江戸大絵図』部分 天保14年(1843) 右上部の太い川が隅田川、河口の島の中に「石川」「佃島」が読める
『御江戸大絵図』部分 天保14年(1843) 右上部の太い川が隅田川、河口の島の中に「石川」「佃島」が読める

この三つの島(地域)は今日、それぞれのことで有名である。石川島は、民間で日本初の洋式造船所がつくられた場所。「石川島播磨重工業(IHI)」と聞けば、誰もがピーンとくるだろう。その前身である「石川島平野造船所」は明治9年(1876)に、この島で操業を開始した。隣りの佃島は「佃煮」発祥の地、佃煮は江戸時代に漁師が考え出した食べ物だ。その隣りに位置する月島は「もんじゃ焼き」があまりにも有名である。この発祥の地は諸説あり不明だが、江戸末期から明治初期には食べられていたといわれている。ただ、月島は明治になってから佃島の南側に埋め立てて作った島だから、ここは発祥の地ではなさそうだ。したがって、江戸時代の古地図のどれにもまだ月島は記載されていない。

歴史に頻繁に登場するのは、江戸時代以降の石川島である。この隅田川河口地域は江戸湊(えどみなと)と呼ばれ、海上交通の要所だった。現在の中央区湊や明石町の隅田川沖に当たる。
海から江戸に入る物資を積んだ船は、すべてこの石川島や佃島付近を通ることになる。軍事面からも重要な海域だった。佃島漁民は、もともと幕府と密接な関係(家康は大坂の佃村の漁民をここに移住させた)にあったから、江戸湊を往来する船舶や様々な海上情報を随時幕府に提供していたはずである。その際、白魚をはじめとする魚介類の将軍献上という形をとったのではないだろうか。
ペリー来航(1853)後、急いで幕府は佃島に台場(砲台)を築いたり、石川島で日本初の洋式帆走軍艦の建造にも着手した。幕府にとってこの地域は、江戸を守るための、ひいては日本を守るための最重要海防拠点の一つだったことが伺える。

石川島が時代劇や捕物帖によく登場するのは、「人足寄場(にんそくよせば)」がここに置かれたからだ。提唱者は、ご存じ“鬼平”こと火付盗賊改長谷川平蔵(ひつけとうぞくあらためはせがわへいぞう)。火付盗賊改は、町奉行所のなかのいわば地検特捜部のような役職である。老中松平定信への建議の末、寛政2年(1790)に実現した授産施設(失業者に仕事の機会や技術を与える施設)だ。
人足寄場は更正施設としての役割もあった。どんな人が収容されたかといえば、無罪の無宿者や軽犯罪者。手に職をつけて社会復帰させることが目標だった。人足寄場は更正施設であり、職業訓練所でもあり、療養所まで備えていた。設置の三年前には天明の大飢饉(1787)があったことも影響している。職も食もなく諸国から江戸へ流入し無宿人となる者が多く、幕府も対策を迫られていた。それにしても、このような施設がこの時代からあったことは、世界の歴史をみても珍しいことではないだろうか。

石川島灯台(人足寄場があった場所)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
石川島灯台(人足寄場があった場所)
石川島人足寄場の灯台が復元された。

石川島には江戸の面影はまったくない。正確には石川島という地名はもう消え、佃(つくだ)になった。平成になって復元された灯台があるばかりである。高層マンションが林立する「リバーシティ21」と呼ばれる地域だ。
人足寄場は、石川島と佃島の間を埋め立てて造成された授産施設。当時何百人もの人たちがここで手に職をつけるために働き学んだ場所である。大工や左官など様々で、人に応じて職種が選ばれ、賃金ももらえた。製品の売上代金から材料費や道具代等を差し引いた労賃で、その三分の一は出所時のために強制的に貯金をさせられたという。「油しぼり」という職種もあったが、人力での作業はかなり重労働だったようだ。その仕事の辛さは、今でも『油をしぼられた』という言葉に生きている。
もとの灯台は、人足寄場の油しぼりの利益で慶応2年(1866)に造られた。この復元された灯台、近づいてよく見るとビックリ、何と公衆トイレになっている。

文 江戸散策家/高橋達郎
協力・資料提供/深川江戸資料館
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