古地図の楽しみ方はいろいろある。どのようにして現在につながっているのか、変わっていく地形を眺めてみるだけでも興味深い。しかし、江戸時代の古地図上に現在のある場所を特定するのは、およその見当はつくもののかなり骨がおれるものだ。それは江戸が埋め立て地が非常に多い都市であることに起因している。とくに下町地域は、江戸時代を通じて埋め立てが盛んに行われ、新しく堀をつくったり、堀を埋めたり、川をつけかえたりもした。江戸は水上交通の盛んな「水の都」でもあったのである。
海を埋め立て土地を造成してきた江戸初期からの歴史は、現在も進行中である。だから、江戸時代の古地図に現在を当てはめようとしてもなかなか分からない。そんなとき、江戸を知る上でも現在を知る上でも役立つのは、差し渡し役をしてくれる明治時代の『東京市十五区番地界入地図』である。
前回の『御江戸大絵図』と見比べてほしい。時代の差は約60年、隅田川河口には新しい島が出現している。月島だ。でもその先の豊洲(とよす)や晴海(はるみ)の造成はまだない。国際展示場のある場所や、「ゆりかもめ」の走っている辺りは全部まだ海の底だ。
明治40年時点での隅田川河口には、大きく分けて三つの島が存在している。地図の上(北側)から一番目が佃(つくだ)、二番目と三番目が月島(つきしま)、三番目の月島は今の「勝どき」の辺りだ。一番上の島は、江戸期にすでにあった石川島の隣りに佃島が造成され、さらに埋め立てが進んでいる状況である。この月島は明治20年代には完成、次の予定地「埋立設計地」も地図に記されている。
月島の造成には訳があった。大きな河川の河口には土砂が堆積するものだか、この隅田川河口にも長年のうちに水底に土砂がたまっていた。それは船の運航にも都合が悪いため、水底を浚渫船(しゅんせつせん)などで浚(さら)う必要があった。その土砂を用いて造成したのが月島である。
島と深川方面を結ぶ相生橋(あいおいばし)が架かったのが明治36年(1903)、これは隅田川の東側。交通量の多い西側(江戸市中側)はもっぱら渡し船が活躍した。当時は人と物資を運ぶ重要な交通手段だった。ここには有名な三つの渡しがあった。
●「佃の渡し」 17世紀中頃から漁民や見物客(月見や花見客)が利用、佃大橋の架橋で廃止(昭和39年)。『佃島渡船』の石碑が佃に残っている。●「月島の渡し」 明治29年にでき、月島の工業地帯へ多くの労働者を運んだ。●「勝鬨(かちどき)の渡し」 明治38年に日露戦争の勝利を記念して命名された渡し。この二つの渡しも昭和15年の勝ちどき橋の完成とともにその役目を終えている。 |