江戸の下町を代表する「深川」。深川といえば、江戸っ子の頭に真っ先に浮かぶのは「富岡八幡宮」や「深川八幡祭」だ。「辰巳芸者」「木場」と答える人も多かったことだろう。
隅田川の東側の本所や深川は、江戸時代に人口がどんどん増えた地域である。神社仏閣も多く、住む人が増えると、さらに地方の神仏を勧請(かんじょう)して寺社が増えるということになる。また、江戸市中の大火のために、移転してくるケースも多かった。
ということは、あちこちの寺社でそれぞれの祭事がある。いつもどこかで何らかのお祭りやイベントが催されている状況だ。また、それを好んで暮らしのなかに一体化していたのが江戸庶民だったともいえる。とにかく、飲んで騒いでお祭りを楽しむことが大好きなのだ。何か大きなイベントがあると、人がダーッと動く。それは今もそうかもしれないが、どこかノリが現代人と違うような気がする。
深川の最大のイベントは、「富岡八幡宮」の祭りだった。富岡八幡宮は、寛永年間(1624~1644)に菅原道真の子孫とされる僧侶、長盛上人(ちょうせいしょうにん)が先祖伝来の八幡神像をこの地に伝えたのが始まりといわれている。近くの「富賀岡八幡宮」と八幡神像の関係からの創建説もあるが、伝承の域を出ていない。
「富岡八幡宮」と「富賀岡八幡宮」、一文字違いの八幡宮が近所にあるということは興味深い。富岡八幡宮(江東区富岡一丁目)は、寛永4年(1627)創建、通称「深川八幡」。富賀岡八幡宮(江東区南砂七丁目)は万治2年(1659)、海岸に面した洲を開拓してできた砂村新田の鎮守として創建された。通称「元八幡」と呼ばれている。
この図会の表題には富賀岡八幡宮と書かれているが、これは富岡八幡宮のことだ。ややこしい話だが、江戸時代の史料には深川八幡を「富賀岡八幡宮」「富ヶ岡八幡宮」と表記することが多い。
この深川八幡祭は多くの人を呼び込んだ。赤坂山王神社の山王祭、神田明神社の神田祭とならび、江戸三大祭に数えられている。
祭りに欠かせない神輿(みこし)には、宮神輿(神社所有)と町神輿(町所有)がある。富岡八幡宮には、江戸時代に紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)が奉納したと伝えられる宮神輿があったが、関東大震災で建物といっしょに焼けてしまった。町神輿だけではさみしいと、平成3年(1991)に奉納された宮神輿がすごい。鳳凰の目には何カラットものダイヤが光り、ルビーや宝石、純金をふんだんに使った黄金の神輿だった。総重量約4.5トン、結局あまりにも大きく重くて担ぐのが困難であることから、二の宮神輿が平成9年(1997)につくられ、実際に担がれている(約2トン)。この日本一豪華な神輿は境内に展示してあるので一度は鑑賞しておきたい。
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