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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第48回 神田祭は、江戸をあげてのビッグイベント。
『江戸名所図会』 神田明神祭禮 (大江山凱陣は源頼光の大江山鬼退治の故事にちなんだ山車の行列)
『江戸名所図会』 神田明神祭禮 (大江山凱陣は源頼光の大江山鬼退治の故事にちなんだ山車の行列)

今のわれわれが江戸時代のことを知ったり楽しんだりすることのできる身近なもののひとつは「祭り」だろう。江戸っ子の心意気は火事や喧嘩ばかりではない。祭りを忘れてはならない。祭りは有形無形の文化や風習、当時の人々の感性でさえも現代に運んでくるかのようである。江戸を代表する祭りは日枝神社の「山王祭」と神田明神の「神田祭」。双璧をなすこの大祭は、別名「天下祭」とも「御用祭」とも称されたように将軍家がからんだ公認の祭りだったため、盛大に執り行われた。今もニュースなどで威勢よく神輿(みこし)を担ぐ祭りの映像が報道されるが、江戸市民の熱狂ぶりは今の比ではなかったようである。
今年(平成19年)の神田祭は5月10日(木)~14日(月)。例年5月15日に近い土曜日と日曜日が、それぞれ神行祭(しんこうさい)と神輿宮入(みこしみやいり)の日に充てられている。一般の観光客はこのメインイベントとなる土・日をねらって行くのがいい。今年は本祭に当たる年、関係者の気合いの入れ方も相当なものだろうから、ぜひ見ておきたい。

もともと神田祭は旧暦の9月15日に行われた秋祭りである。明治時代に5月に変更された。これほどの祭りの季節が変わるのはそれなりの理由があるのだろうが、9月というのは時季的に台風が多く、あの大きな山車(だし)が雨風に耐え切れなかったのではないか、安全面を考慮したのではないかとも思われる。
天下祭、御用祭と呼ばれるのは、徳川将軍が上覧(じょうらん)したからである。つまり将軍も神田祭を見て一緒に楽しんだのである。江戸城内に祭列が入ることを許されたのは元禄元年(1688)からといわれている。神田祭の祭列は、隔年で丑・卯・巳・未・酉・亥の年に城内に入った。これが今の本祭に当たる。(山王祭の祭列は子・寅・辰・午・申・戌の年に城内に入った。) 
神輿や山車、練り物(ねりもの)の行列が数キロメートルも続くことになる。練り物とは趣向を凝らしたテーマ性のある仮装行列のようなもの。徳川家は氏子でもあり、江戸総鎮守としての神田明神は幕府の庇護を受け確固たる地位を築いたのである。江戸城内に祭列が入るということは将軍から城内の関係者への日頃の慰労という側面もあっただろう。とくに大奥からの要望は高く、大奥は練り物を注文したりもしている。このときすでに江戸市中には、練り物の道具・衣装・人員を揃えて祭列を演出する請負人が存在していた。
神田明神の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと=だいこく様)、少彦名命(すくなひこなのみこと=えびす様)、平将門命(たいらのまさかどのみこと=まさかど様)の三神。祭神が三基の鳳輦・神輿(ほうれんみこし)に乗って東京都心を巡行するのが神田祭である。

『江戸名所図会』部分 (娘をお姫様に見立てた行列)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
『江戸名所図会』部分 (娘をお姫様に見立てた行列)
祭りに 潔くお金を使った江戸っ子。

神田祭の費用は幕府も一部負担したが、基本的には氏子である町方の負担である。とにかく莫大な費用を要した。山車や練り物などは新調することが多く、町同士の競争心理も作用してだんだん豪華になっていった。本来氏子主体の祭りだから自粛すれば負担は軽くなると思うのだが、江戸っ子はそうはしなかった。日頃のストレスを発散して大騒ぎする場が必要だったのだろう。幕府もエスカレートする状況をみて、祭りを2年に一回に規制したこともあれば、上覧を止めた将軍(吉宗)もいる。それでも、江戸っ子はこの祭りを続けてきたのである。
年頃の娘をもつ親は、着飾った娘を祭列に加えさせるのが夢だった。駕籠(かご)に乗せてお姫様に仕立て上げたり、踊り屋台で踊らせたりもしたい。そのためには相当な金品が必要だった。お金持ちならこれもできたが、借金までする者もいた。借金を返せず夜逃げをしたり、妻子を遊郭に売ったという笑えない話も多く残っている。

文 江戸散策家/高橋達郎
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