Home > 江戸散策 > 第47回
向島、「むこうじま」という語感には魅力的な響きがある。江戸時代の人もきっとそう感じていたのではないか。すぐ近くに接しているわけでも、はるか遠くにあるわけでもなく「向こう」であるところが、なぜかよいのである。向こう側に何か期待するものがあるような…。これも日本人の美意識? 江戸時代に向島という地名はなかった。隅田川西岸の浅草側から東岸を見て向こう側ということで、特定の場所ではなくアバウトな地域をさす俗称だった。島というのは、島のように見えたからだろう。現在の墨田区向島辺りを指す。今の向島は昭和になってからできた町名である。 またこの地(隅田川の土手)は、墨提(ぼくてい)という風雅な名前で呼ばれた。土手といったらそれまでだが、墨堤といった瞬間から新しい世界が始まるようでもある。実際、墨提は四季折々の風物詩が繰り広げられる風光明媚な場所で、通人に好まれ文人墨客(ぶんじんぼっかく)が集う、おしゃれで粋な所だった。 江戸後期の古地図を見ても向島が人気の高かった場所であることが判明する。地理的に浅草寺に近いこと(新吉原に近いこと)。隅田川があること。百姓地(田畑)が多く景勝地であったこと。現在にも続く有名な寺社がいくつもあったこと。隅田川沿いには八代将軍吉宗時代に本格的に桜の植樹が行われ、花見の環境も揃っていたことなどもあげられる。 とにかく遊びにはこと欠かないレジャーエリアだった。それも羽振りのいい商人や武士だけでなく町民までも楽しめる行楽地だ。料理屋、和菓子屋、茶屋や出店も数多くあった。花見、梅見(向島百花園)、月見や雪見、夏なら隅田川での夕涼み、川遊び、花火もある。寺社への参拝も行楽のひとつ。「隅田川七福神めぐり」は文化年間(1804~1818)にはもう始まっていた。 今もこのエリアは趣のある散策コースだ。浅草方面から隅田川にかかる言問橋を渡って左に川沿いを歩けば、ずっと桜並木である(江戸時代の桜の名所とは少しずれているが)。桜橋の少し先には「長命寺桜もち」の看板。ここで一休みして、帰りは隣の「長命寺」から「弘福寺」「三囲神社」と回りながら浅草まで戻る。道も分かりやすく気軽なコースだ。ゆっくり歩いて3時間もあれば十分。 向島と聞いてまず思い浮かべるのは芸者。今も向島の料亭では芸者衆が花町の伝統を引き継いでいる。関東大震災(1923)以降に花町は形成されたようだが、江戸時代から向島が人々に人気のあった場所であったからこそ人が集まった。料亭もまた時代とともに変化してこんにちに至っている。当時の風俗は隅田川の東、向島が舞台となった永井荷風の『墨東綺譚(ぼくとうきたん)』に詳しい。
考えてみれば、餅(もち)に桜の葉っぱを巻いて食べるという発想はかなりユニークだ。享保2年(1717)、向島の長命寺門前に住み寺の御用を勤めていた山本新六という男が、大量の桜の落葉掃除に精を出していたときにこの食べ方がひらめいたのだという。門前(墨提)の桜の落葉を樽に入れて塩漬けにしてから、餡(あん)入りの餅を包んだ。試行錯誤のうえ売り出したところ、大当たり。向島の名物となった。そして江戸時代に考案された桜もちは現代まで続いている。しかもこの発祥の地で気軽に食べられることが何とも感慨深い。現在お店の当主は、初代新六から数えて14代目。店舗の看板「長命寺桜もち」とあるように長命寺に隣接している。 享保年間は吉宗の命で墨提に桜がどんどん植えられ、年々花見が盛んになっていく。長命寺の桜もちは花見客に喜ばれた。人々は桜を見て、葉まで食べたのだろうか。もちろん、葉は食べても食べなくてもいいそうだ。