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文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第52回 芝神明の「だらだら祭」は、だらだら続く。
『東都歳事記』芝明宮祭礼 (鳥居の手前に生姜売りが店を出している)
『東都歳事記』芝明宮祭礼 (鳥居の手前に生姜売りが店を出している)

秋祭りは江戸に数多くあるが、このだらだら祭は名前からしてユニークである。芝神明の神明祭(しんめいまつり)は9月11日から21日まで多くの日数をかけて行う祭りだからこんな俗称が付いたのだろう。だらだらした祭りというのは決して美称とは思えないが、のんびりした時代に庶民は親しみを感じたのかもしれない。江戸時代も現在も、旧暦と新暦の違いがあるものの、この同じ期間に祭礼が執り行われているのはなぜかほっとする。現代の祭りは観光客を当て込んで、土曜・日曜を意識しすぎだと思う。伝統ある祭礼の日がずれてしまっていることが多いのが現状である。
江戸時代、芝神明は芝神明宮とも飯倉神明宮とも呼ばれた。現在は芝大神宮(しばだいじんぐう)が正式名称になっている。いろいろな呼び方があるようで、芝神明や芝の神明さまのほうがしっくりくるという人もいる。それは神田神社を神田明神や明神さまと呼ぶ感覚と同じである。通りのいい呼称があるのは、神社が人々の暮らしのなかに自然に溶け込んできたからだろう。
芝神明の主祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)と豊受大神(とようけのおおかみ)。豊受大神は食物の神様で、五穀の成長を司るとされている。幕府の保護のもとに「関東のお伊勢さま」として広く信仰を集め、芝の神明祭は大勢の人出で賑わった。

芝神明のだらだら祭は別名「生姜祭(しょうがまつり)」と呼ばれる。祭礼期間中、境内や神社の周辺で生姜市が立つことで有名だ。神社の創建時(約千年前)、周辺は生姜畑が多く神前へたくさんの生姜が供えられたという。それが発展して参拝者にも売るようになった。生姜は薬用の植物でもあり、信仰と結び付きやすい食べ物でもあった。芝神明の生姜を食べると、諸厄が払われ風邪をひかないといわれた。今も生姜を買い求める参拝者が多い。上の図会の下部では、名物の生姜を売っている。

だらだら祭は、生姜ともう一つ有名なものがあった。「千木箱(ちぎばこ)」である。千木箱とは、女性が使う小物入れのようなもので曲物(まげもの)でできている。中には飴や豆などを入れた。小判型の弁当箱のように蓋(ふた)が付いていて、表には藤の花が美しく描かれていることが多い。女性はこの千木箱を箪笥(たんす)に入れて、着物が増えるよう願掛けをする。千木は千の着物(千着)に通じ、着る物に困らないためのおまじないである。衣類が箪笥の肥やしになっている現代とは状況が違って衣類は貴重だった。上の図会では、鳥居のすき間から並んで見えているのが千木箱だろう。

9月は、15日に神田明神の神田祭が盛大に執行される (5月に移行したのは明治時代) 。江戸の大きな祭りはこれがしめくくり。この天下祭をはさみ芝神明のだらだら祭がだらだら続いたのである。

芝神明の狛犬 台座にめ組の文字が彫られている
ちょっと江戸知識 コラム江戸
芝神明の狛犬 台座にめ組の文字が彫られている
め組の喧嘩は、芝神明で起こった。

芝神明を有名にしたのは、生姜の他にめ組の喧嘩があげられる。芝神明は町火消め組の受け持ち区域だった。文化二年(1805)境内で奉納相撲が催されたとき、め組の鳶(とび)職と力士との間で些細なことから口論になる。だんだん騒ぎが大きくなり、それぞれに加勢がついて大乱闘事件に発展。この騒動が世間の注目を集めたのは、火消しを管轄する町奉行、相撲興行を管轄する寺社奉行、それに勘定奉行までも加わって裁定を下した特殊性と、いわゆる粋な裁きがあったからである。騒ぎの関係者には寛大な処分を下し、事件の原因は自然に鳴りだした芝神明の半鐘(はんしょう)であるとし、半鐘に遠島を申しつけた。事件は首尾よく収まり、この裁定に庶民は喝采したのだった。
この事件は後に脚色されて『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』の外題で歌舞伎で度々上演されてきた。乱闘のとき、め組が乱打したという半鐘は、明治になって許しが出て、今は元の芝神明に戻っている。だらだら祭の期間中は展示されるのでぜひ見ておこう。また、2月の節分祭にはこの、め組の半鐘を供養する半鐘祭が行われている。

文 江戸散策家/高橋達郎
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