鮨は、いったいいつ頃から日本人は食べていたのだろうか。鮨のなかでも握り鮨に限っていえば、江戸時代も19世紀に入ってからのことで、日本を代表する和食としては新しい。たかだか200年の歴史である。
華屋与兵衛(はなやよへい/1799-1858)なる人物がこの握り鮨の考案者とされているのが通説となっている(華屋は花屋、与兵衛は與兵衛とも表記される)。客の目の前で、さっと鮨を握ってみせて食べさせるこのスタイルは、江戸っ子に大いにうけ評判になった。最初は簡易な屋台のような店だったと思われるが、気の短いせっかちな江戸っ子にはぴったりの食べ方だったようで、後に「本所の与兵鮨」は、江戸の三大鮨屋(三鮨とも)と称されるまでになって大繁盛した。ちなみに、江戸の三大鮨屋は他に「松の鮨」「笹巻き鮨」。
今でこそメジャーなった握り鮨だが、もとは江戸の郷土料理の一つに過ぎなかったのである。それが猛スピードで日本全国を席巻し、やがてsushi-barとなって海外でも注目される時代になった。握り鮨は、江戸が誇る特筆すべき食べ物であり食文化といえる。
握り鮨といえば必ず「江戸前」という言葉がついてまわる。それは江戸前の海(現在の東京湾)でとれる魚介類を鮨のネタに使うことからそう呼ばれたものだが、本来は鮨を指す言葉ではなかった。鰻(うなぎ)のことを江戸前と呼んでいたのである。神田川や隅田川で捕れる鰻を蒲焼きにして食べていた。江戸の町づくり自体が家康入府以来、埋め立てが多く堀や川がたくさんあり、鰻の棲息環境が良かったため鰻は豊富に捕れた。食材としての鰻は、やがて圧倒的な人気の握り鮨の登場で、江戸前の名前を譲ることになったのである。
鮨の歴史は古く、握り鮨が現れるまでは「なれ鮨(慣れ鮨、熟れ鮨とも)」や「押し鮨」を人々は食べていた。なれ鮨とは、魚の保存を目的に考えられた料理で、米飯に塩漬けの魚を数カ月以上の時間をかけて漬け込んだもの。米飯の乳酸発酵を利用し、酸っぱくなった魚を食べる(飯は食べられない状態なので捨てる)。現代に残るなれ鮨は、滋賀県の鮒鮨(ふなずし)が有名だ。 押し鮨(箱鮨)は上方から伝わった。酢で味付けをした米飯を箱に入れ、魚をのせ、蓋の上から石などで圧した鮨をいう。これなら一晩で出来上がるばかりか、ご飯も一緒に食べられるので都合がいい。だから早鮨とも呼ばれた。握り鮨は握ってすぐ食べられるので、もちろんこれが一番早い。段階的には、なれ鮨→押し鮨(17世紀後半)→握り鮨(19世紀初頭)という順序で登場した。
上部図版は、押し鮨を売る屋台。屋台の後ろには押し鮨の箱を担ぎ上げている男も描かれている。江戸市中にはこのような鮨の屋台が数多く出たのだろう。やがて握り鮨が商品の中に入ってきて大流行したということになる。
当時の握り鮨が現代と違うのは、その大きさである。おそらく3倍から4倍はあったと思える。二、三個も食べれば、もうお腹がいっぱいになる量である。値段は一個当たり四文(100円位)、鮨種によっては八文(200円位)で、江戸庶民が気軽に屋台で食べることができた。その一方で目の飛び出るような高級店もあった。三両(30万位)もとる握り鮨屋も現れた。度を超した贅沢な鮨を売ったために、質素・倹約を命じた天保の改革にひっかかり、前述の華屋与兵衛は手鎖(てぐさり)の刑に処せられたという歴史もある。
現代も、気軽に行ける回転鮨もあれば、暖簾をくぐるのが恐い高級店もある。どこか江戸時代と似ている。
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