魚は日本人の食生活に深くかかわってきた。魚自体はさほど進化しているとは思えないので、大昔の人が食べていたものと同じものを我々は食べていることになりそうだ。好まれる食べ方は時代によって違ったり、基本的には鯵(あじ)なら鯵、鮭(さけ)なら鮭で、まったく同一のもの食べ続けてきたという点で、めずらしい食材、また貴重な食料といえる。
江戸に幕府が開設されて以来人口は急増し、将軍吉宗の時代には百万都市となっていたようである。その需要を満たすために魚の流通システムがだんだん整備され、魚市場が出来上がっていった。いわゆる魚河岸である。代表的なのが日本橋、この図会には日本橋の魚市場の活況の様子がこと細かく描かれている。
威勢のいい掛け声が聞こえてきそうな図会をよく見てみると、魚の種類の多さとその大きさに驚く。どうしてこんなに大きいのか、絵だから多少の誇張はあるにせよ、出典先である『江戸名所図会』は、当時をもっとも忠実に描いたものとして定評ある書物であることを考えてみると、やはり今より魚は全般に大きかったのではないかと思う。当時の江戸前の海(江戸湾)は現在の東京湾よりずっと広く、環境もよく魚の宝庫だった。自然の生け簀状態で、遠くの海まで行かなくても大きな魚がたくさん捕れたのではないか。
図会の説明には『遠近の浦々より海陸のけぢめもなく、鱗魚(りんぎょ)をここに運送して、日夜に市を立ててはなはだ賑わへり』とある。塩干ものなら陸路でもいいだろうが、鮮魚はそうはいかない。冷凍設備はないし、氷もないから夏場はたいへんである。
ではどのようにして運んできたか。ひたすら時間短縮のために人力で船を漕(こ)いで運んだ。この船を「押送船(おしおくりぶね)」という。漁荷専用の船で、左右に四本ずつの櫓(ろ)があり、八人で一斉に漕ぐ、いわゆる八丁櫓の高速船である。今でいえばレガッタのような雰囲気だ。
日本橋川を上ってきた押送船は日本橋河岸に横付けされ、平田船(ひらたぶね/図会の左上から2・3番目の船)上で仕分けの後、すぐ問屋の店先に並ぶ。問屋が荷受けをして全体を仕切るが、実際の販売は中間業者である仲買人が担当した。この魚市から一心太助のような棒手振の魚売りが早朝に魚を仕入れ、江戸の町を売り歩く。料理屋の仕入れもこの魚市である。江戸城で消費する魚は、魚納屋役所(うおなややくしょ)の役人が買い付けに来た。この場合は役人の一言で、魚も値段もすべてがキマリ。値段は市価の十分の一程度であったという。なぜかといえば魚河岸成立の前提として、魚は将軍に献上する性格のものだったからだ。その魚を積んだ荷車は、先頭に「御用肴(さかな)」の札を掲げて江戸城に突っ走った。
「一日に千両の落ち所」といわれるように、江戸には一日千両ものお金が動く場所が三カ所あった。魚河岸、芝居町、吉原である。「日に千両、鼻の上下にヘソの下」ともいう。鼻の上の目は芝居を見ること、鼻の下の口は魚河岸の意味だ。
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