漢字で書けば、山鯨。山に鯨がいるわけもないのに、これはいったい何を意味する看板か。正体は、山鯨を食べさせるお店なのだ。もちろん鯨の肉などではなく、肉は肉でも猪(いのしし)の肉。だからこの看板は「猪レストラン」ということになりそうである。
こんなややこしい看板を出すには事情があった。江戸時代はまだ、獣肉を食べることを良しとしない風潮が強く、表だって肉を食べることは一般に避けられていた。山くじらは猪の符丁(ふちょう)のようなものなのである。鯨も哺乳類だから同じに思えるが、当時の人々は海にいる鯨は魚と認識していたからである。魚ならOKというわけで堂々と看板を掲げて営業しているのである。別に客を騙していたわけでもなく、周知の事実だった。洒落っ気というか、どこか江戸の人々の感覚はあっけらかんとしている。因みに捕鯨は江戸時代前には関西方面で始まっているため、鯨は知られていたと思える。
ついでに、この浮世絵の右側のお店の看板にも注目してみよう。「○やき」と、その左の小さな文字の「十三里」から、何かを丸焼きにして売っているお店のようである。「十三里」はなかなか凝った広告コピーで「栗(九里)、より(四里)、うまい、十三里」という意味(9+4=13)で、このお店は焼き芋屋であることが分かる。これも江戸っ子らしい洒落の効いた表現だ。
猪肉を「山くじら」「ぼたん」、鹿肉を「もみじ」、馬肉を「さくら」と呼んだ。「ぼたん」はお皿に盛った肉の形が牡丹(ぼたん)の花に似ていることから、「さくら」は馬肉の色が桜の色に似ていることから、「もみじ」は『奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき』の和歌から称された名前である。この言い換えは、近世までの日本の食文化が肉食忌避文化であったからに他ならない。仏教伝来以降、殺生の戒めの影響が大きかったのではないだろうか。天武天皇の時代には、肉食禁止の禁令も出されているし、江戸時代の「生類憐みの令」は特殊なケースにしても、綱吉は猪肉や鹿肉など、食べることも販売することも禁じている。それでも、有史以来日本人は狩猟の時代からずっとさまざまな獣肉を食べ続けてきたと思える。ただ、どの時代を振り返っても牛馬などの家畜を食べる習慣はなかった。飢饉(ききん)でもあれば別だが、農耕や合戦に支障をきたすという現実的な理由からである。
実は、徳川将軍は牛肉を食べている。誰がどれだけ食べていたかは分からないが、彦根藩(井伊家)は将軍家に牛肉を献上していたのである。それは食用でなく養生用であるという。つまり、薬なのである。したがって、牛肉を食べたことにはならないという都合の良さ。さぞかしおいしい薬だったことだろう。この牛肉がこんにちの「近江牛」のルーツである。将軍も庶民も似たようなものだ。
牛肉を食べるようになったのは、西洋文化が押し寄せた明治以降だ。仮名垣魯文の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』には、牛鍋店で語り合う人々の世相が生き生きと描かれている。文明開化の代表的な光景である。明治天皇が明治5年(1872)に牛鍋を食べたことから、人々も大手を振って牛肉を食べられるようになって広まった。
宗教上の理由から特定の肉を決して食べないという国が世界に存在するなかで、わが国の建前と本音を使い分けてきた肉食の歴史は、驚くべき柔軟性をもった食文化といえるだろう。
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