深大寺の和尚さんが、客人に蕎麦をふるまっている。小僧がもう次の蕎麦を運んでくる。外はススキや銀杏、見晴らしの良い場所。季節は晩秋、新蕎麦を風雅に賞味するには、これ以上の舞台設定はない。深大寺蕎麦は江戸時代から知られていた。天保年間(1830~1844)に出版された『江戸名所図会』から本文を紹介しよう。
『当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前、少し高き畑にして、わづかに八反一畝(はったんいっせ)のよし、都下に称して佳品(かひん)とす。しかれども真とするもの甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠(こうむ)らしむるといえども佳ならず。』
著者は、八反一畝(約2430坪)の畑で作られた蕎麦が美味しく、それ以外の近隣の村でつくられた蕎麦は、深大寺という名前がついた蕎麦でも美味しくないと判断している。今なら“偽装表示”ということで問題になってしまうところだが、そんなことはおかまいなしの時代で、生産者や消費者がことさら権利を主張することもなく、何となくあの辺でとれた蕎麦を深大寺蕎麦ということで容認していたのだろう。佳品(かひん)と称されたように深大寺蕎麦は美味しかったらしく、将軍家にも献上され、江戸の各大名屋敷からは蕎麦を求めて使いが足を運んだという。美味しさの理由は、ここの土地と気候が蕎麦に適していたこと、それに晒(さら)し水として使う湧き水(武蔵野台地)が豊富だったことによる。
蕎麦の歴史は古く、縄文後期の遺跡から種子が発見されていることから、3000年位前にはもう日本人は蕎麦を食べていたというのが定説。以来蕎麦の食文化は連綿と続いてきたのだが、今のような麺の「蕎麦切り」になったのは江戸初期からのことである。それまでの一般的な食べ方は、蕎麦粉を熱湯でこねた「蕎麦がき」「蕎麦ねり」と呼ばれる団子状のものを煮込んで食べていた。蕎麦粉だけでは、こねて、のして、切ってもなかなか麺状にしづらかったからである。これを解決したのが、つなぎに小麦粉を使うことだった。この手法は江戸初期に朝鮮の高僧によって日本にもたらされた。また一方、つなぎの問題は別にして、蕎麦切りが天正2年(1574)、寺(長野県木曽郡大桑村)の修復工事の竣工祝いに出されたという記録も残っている(蕎麦切り発祥の地は、信州説と甲州説がある)。
蕎麦切りは、珍しさと美味しさで評判になり江戸の人々に歓迎され、人の集まる所には必ず蕎麦の屋台が出て、誰でも気軽に食べられるものになっていった。“二八蕎麦(にはちそば)”や、夜鷹(よたか)と呼ばれる街娼がよく利用した“夜鷹そば”のような屋台から高級店まで多数の蕎麦屋が江戸には存在した。
深大寺を散策される方には、やはり蕎麦をお勧めしたい。門前には文久年間(1861~1863) 創業の「嶋田家」という老舗もある。
江戸時代に深大寺は蕎麦ばかりが有名になってしまったが、浅草寺と肩を並べる古刹(こせつ)で天平5年(733)に開かれた寺である。有名な寺宝として、「釈迦如来倚像(白鳳期)」や「梵鐘(鎌倉後期)」などがあり、ともに国の重要文化財。深大寺は古くから人々の信仰を集めていたのである。
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