一般的に江戸の人々は今より酒を飲んだとよくいわれる。引き合いに出されるのが江戸後期の風俗を著した『守貞謾稿』だ。ここには八、九十万樽の酒が上方から毎年江戸に下ってきたことが書かれており、江戸近郊で造られた十万樽と合わせて年間百万樽の酒が江戸で飲まれていたと推測する書も多い。樽を四斗樽(しとだる)約72リットルとして計算、これを当時の人口で割り一人当たりの消費量を算出、現代の消費量と比較して江戸の人は大酒飲みだったと結論づける傾向がある。いささか無理のある話に思えるが…。
ただ酒の大消費地であったことは確かで、江戸時代には醸造技術も飛躍的に発展し、大量生産されるようになって、一般庶民も比較的気軽に飲めるようになったのは事実である。
清酒は「諸白(もろはく)」と呼ばれる高級酒、伊丹や池田で造られた。江戸中期からは「灘の生一本」で有名な灘酒が注目を浴びるようになる。武家や寺社ならともかく、長屋住まいの庶民はこのような高い清酒を毎日飲むわけにはいかず、「片白(かたはく)」と呼ばれる“どぶろく”のような濁り酒の方を多く飲んでいたようだ。
江戸で飲まれる酒のほとんどは上方からのもので、いわゆる「下り酒」である。伊丹や灘から船積みされて、はるばる海を越えてやってきた。陸上輸送ではもっと経費がかさむからだろう。
紀伊半島をぐるっと回って熊野灘の荒波にもまれ、鳥羽経由で遠州灘を通るルート。江戸まで約20日間かかった。かかったというより、かけたといったほうが正しいかもしれない。いくらなんでも20日間は長すぎはしないか。そこには訳があった。樽に入った酒は、海上でゆらゆら揺れるとおいしくなるのだという。樽材には吉野杉(奈良県南部)が使われた。その特長は目が混んでいて香りが高いこと、酒樽に最適だった。こんにちも美しい高級ブラント材として知られている。酒は20日間かけて波に揺られ吉野杉の香りが移り、まろやかになって、ますます味が良くなったという。
この話はどうやら本当らしく、上方の商人は江戸っ子が地元よりおいしい酒を飲めるのはけしからんということで、わざわざ酒を船に積んで遠州灘あたりまで行って引き返してきたという笑い話があるほどである。それほどこの「下り酒」は評判がよく、遠州灘を富士を眺めながら運ぶことから「富士見酒」という美称もある。
海上輸送は、大型の菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船(たるかいせん)で運ばれた。樽廻船は享保年間(1716~1736)にできた酒専用の輸送船である(後にほかの商品も混載して運んだ)。 この図会に描かれている船は、伝馬船(てんません)と呼ばれる和船、酒問屋の蔵に横付けできる便利な小船だ。江戸の港に入った樽廻船から酒樽を受け取り、堀を上ってきたところである。酒問屋はこの図会の題名にあるように新川に集中していた。ここから酒樽は仲買業者を経て江戸市中の酒屋に出回ることになる。
実際、江戸時代の酒はうまかったのか、ということは気になるところ。日本人の味覚が時代によって多少変化があったにせよ、当時の酒(清酒)が今ほどうまいとは思えない。吟醸酒の誕生は大正・昭和になってからのこと。現代は、酒好きにとって恵まれた時代である。徳川将軍が飲んだお酒(献上酒)よりはるかにうまい酒を飲んでいるのは、まず間違いのないところだろう。われわれは、歴史上もっともおいしい酒を飲める時代に生まれた。
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