美しい花や草木を眺めて楽しむのは、時代や国をこえて世界共通だろうが、江戸の人々がつくり出した文化は際立っている。熱狂的ですらあると思えるのである。戦争のない平和な時代が続き社会が安定していたという背景も関係している。
梅が咲けば梅園に出かけ、桜が咲けばみんなで花見の宴会、藤が咲けば藤見という具合である。雪が降れば雪見もできる。紅葉が一葉舞い落ちるのを眺めて楽しむこともできる。日本人のDNAなのだろうか、江戸の人々は季節と上手に遊んでいるかのようである。美しい花などを眺めにわざわざ出かける「愛(め)でる文化」が定着したのは江戸時代の中期以降である。
江戸庶民にとってこの「愛でる文化」は、なにも特別風流なことでもなく、日常の行楽、レジャーだった。お金もさほどかからないかわりに腹の足しにもならないが、人々は時間と、少々遠くても歩いていけるだけの健脚をもっていた。
花見の錦絵や図会はいくつか残されている。藤を描いた錦絵で、もっとも知られたのがこの広重の『亀戸天神境内』だろう。この錦絵は、一番手前に描かれた藤よりも太鼓橋のほうが有名になった。日本庭園を気に入ったフランス印象派モネは、睡蓮(すいれん)の絵のなかにも太鼓橋を登場させているほどである。
池の向こう側をよく見ると、縁台に座っている人たちは藤見をしているのである。天神様にお参りし、藤をみて、さらに飲食が伴うとなれは、これはもう一日を有効活用できる複合レジャーである。夏の藤が咲く時季には、多くの参拝者が押し寄せ賑わった。
そういえば、天神様には普通は梅だろう、と思う向きもあるが、ここの天神様は何と言っても藤が有名だった。当然梅もあるのだが、江戸中でナンバーワンの藤はここ、亀戸天神である。梅のほうは、近所に「清香庵」という梅屋敷(明治期廃園)があり、梅見はこちらが有名。臥竜梅(がりゅうばい)と呼ばれる名木は、水戸光圀公の命名といわれる見事な梅だった。これを描いた広重の大胆な構図の臥竜梅をゴッホが見て、今度は油絵で描き同様の作品を残している。
天神様、亀戸天満宮など、呼び方はいろいろあるが、昭和11年に亀戸天神社が正称となった。古くは東宰府天満宮とも称され、これは九州の太宰府に対しての東の太宰府という意味合いである。神社の縁起によれば、正保年間(1644~1648)に九州太宰府天満宮の神官菅原信祐(道真公の子孫)が、御神木の飛梅(とびうめ)で神像を彫り、亀戸村の小さな祠に祀ったのが始まりという。四代将軍家綱から広大な社地の寄進を受けて開発が進み、寛文2年(1662)には、太鼓橋や心字池など九州太宰府に倣った宰府天満宮が営まれ、関東の代表的な天満宮となった。 後に梅の他に藤も衆目の認めるところとなった。江戸庶民は梅見の後、隅田川の桜を愛で、散った桜を惜しむかのように、またここの藤を見に足を運んだのだった。もちろん、学問の神様だけあって、現在も学業成就、合格祈願のための参拝者が絶えない。藤を楽しみながら学業祈願もいい。藤の見頃は4月下旬~5月上旬くらいだ。
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