数奇な運命を生きたというべきか、戦国という特殊な時代に翻弄されたというべきか、まさに波瀾万丈の人生を送ったお江。いま、東京の増上寺で静かに眠りについている。
お江は、近江の有力な戦国武将、浅井長政(あざいながまさ)と戦国一の美女といわれたお市(信長の妹)との間に、天正元年(1573)、父長政の居城小谷城で誕生(浅井三姉妹の三女)。そのときから波乱に満ちた人生が始まっていた。実父は生後すぐに伯父(信長)に滅ぼされ、2番目の父は母とともに秀吉に自害に追いやられ、その後は三姉妹揃って宿敵秀吉の養女になるという生活を余儀なくされた。
最初の結婚は秀吉の命で佐次一成(さじかずなり)へ嫁ぐが、敵対したため秀吉によって離縁させられたばかりか、2度目の夫である豊臣秀勝(秀吉の甥)は結婚の数カ月後、朝鮮出兵中に現地で病死。文禄4年(1595)、3度目の結婚相手は家康の嫡男秀忠(後の2代将軍)だった。関ヶ原の戦いや大坂の陣では、姉(淀殿)の豊臣方と敵対関係とならざるを得なかった。美貌に恵まれ何一つ不自由なく暮らしていけるお姫様であったはずが、予想もつかないさんざんな半生だったといえる。それでもお江はこれらの境遇を運命として受け入れ、力強く、誇りをもって気高く生き抜いた女性だった。
戦国の三英傑、信長、秀吉、家康と出会った女性。将軍の正室となった女性。それだけでも驚きだが、お江は幕府に多大な貢献をし、実績を残した女性である。将軍の正室で将軍(3代家光)の生母になったのは、江戸時代を通じてお江だけである。家康は戦国を勝ち残り最後に天下を手中に収めたが、お江もまた浅井や織田の血を将軍家に伝えた勝者だといえるのではないか。秀忠との間には二男五女の子どもを授かった。末娘の和子(まさこ)は武家から初めて天皇家に嫁ぎ、後の第109代天皇、明正天皇の生母となっている。また、御台所として確執を生じながらも春日局とともに幕府創生期の大奥を整えたのもお江である。寛永3年(1626)、江戸城西の丸で死去、秀忠より6年早く54歳の生涯を閉じた。
増上寺は、寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺である。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式名。浄土宗の大本山である。家康の帰依を受け、幕府の庇護のもとに江戸時代にますます発展興隆した寺院である。その規模は大きく、多くの伽藍(がらん)をもち、20万坪とも25万坪ともいわれる寺域があった。これは当時上野寛永寺(天台宗)に次ぐ広さで、寛永寺とともに、将軍家の菩提寺がいかに別格の寺院であるかが分かる。増上寺はただ広かっただけではない。そこには、常時学僧3,000人が学び修行する場でもあった。いわば浄土宗の学問所である。境内には関係する寺院・子院の他、学寮も数百戸あったという。そして、各将軍の霊廟が立ち並んでいた。
将軍に関していえば、十五代のうち増上寺には、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人が眠っている。上野寛永寺(四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定)の6人と、ちょうど二分されるかたちだ。家康は日光の東照宮、三代家光も日光の輪王寺、十五代慶喜は谷中霊園に墓所がある。
増上寺には、将軍の他、正室、側室、将軍の子女多数を埋葬してきた歴史がある。国宝だった霊廟や建造物は昭和20年の空襲で、ほとんどが焼失。随一の規模を誇った秀忠の霊廟、宝塔(墓石に相当するもの)も木造だったため焼失、石造りのお江の宝塔は残った。戦後に各霊廟を一カ所にまとめて改葬し、現在のような徳川将軍家霊廟として整備し現在に至っている。その際、秀忠(台徳院)の墓所にはお江(崇源院)の宝塔を使用し、お江とともに合祀された。
お江の墓所「秀忠公夫妻」は、霊廟を入って一番奥の右側にある。
大河ドラマを楽しんだファンなら、お江を偲びながらぜひ訪れてみたい所だ。通常この霊廟は非公開となっているが、年に数回設けられる特別公開日を利用したい。 |