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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第76回 縁起の良い魚 ナンバーワンになった鯛。
『魚尽錦絵』広重(鯛の脇には山椒が描かれている) 出典:国立国会図書館貴重書画データベース
『魚尽錦絵』広重(鯛の脇には山椒が描かれている) 出典:国立国会図書館貴重書画データベース
 

目出たいから鯛は縁起がいい、といってしまえば話はそれまでである。現在なら誰でも、縁起の良い魚や高級魚として、まず鯛をあげるだろうが、歴史は必ずしもそうでなかった。鯛がナンバーワンの地位を確立したのは、武士の社会になってからである。

縄文の遺跡から、食べた後と思われる鯛の骨の出土があり、日本人と鯛との付き合いは古い。万葉集には鯛を詠んだ歌が登場しており、鯛の煮物のようなお吸い物があったことが分かる。歌の作者はそれより刺身が好きらしく、醤酢(ひしおす)に蒜(ひる)をつぶし合わせて食べたいようなことを言っている。醤とは、醤油や味噌の元祖で大豆や小麦を醸造したもの。酢味噌のようなものにニンニクを混ぜて食べたいという内容である。歌人は特別な階級の人かもしれないが、刺身は千二百年以上も前から現代に近いかたちで食べていたようである。
鯛は海の魚である以上、内陸部では刺身というわけにはいかない。一般的には、他の海魚と同じように、干物や塩漬けにして流通した。平安時代、宮中には鯛が献上されたが、特別なケースはあるにせよ、これらはみな加工品だと思われる。貢ぎ物になるくらいの魚だから、鯛がおいしくて高級魚であったことに変わりはない。

内陸部で人気の高い高級魚として、鯉(こい)があげられる。古来、東洋では鯉は出世魚として定評ある魚、男子の成長を祝う端午の節句の鯉幟(こいのぼり)に象徴されるように縁起の良い魚である。鯛と鯉は縁起の良い高級魚の双璧だった。ただ京都が内陸部にあったため、流通の事情で鯉に分があったようである。
貴族社会から武士社会へ変わっていく過程で、だんだん鯛が注目を集めるようになった。戦国時代には、戦いの陣中に鯛や鰹を届けることがよく行われた。鰹は「勝つ」、鯛は「戦勝祝い」の願掛けである。想像を膨らませると、堅い鱗をもつ美しい鯛の姿に、甲冑(かっちゅう)を身につけて戦う勇敢な武士を重ねたのかもしれない。

戦国の世を経て江戸時代には、将軍家も大名屋敷でも、鯛を縁起の良い魚として盛んに食べたようである。江戸では鯛を「大位」と当て字をしてもてはやす一方で、地理的に鯛の入手が不利な京では、鯉を「高位」と当て字をして尊んだという。
江戸後期の、海の魚と里の食べ物の人気を番付表にした『包丁里山海見立角力(ほうちょうりさんかいみたてすもう)』を見ると、東(海の部)の大関(一位)は鯛、関脇(二位)ははも、小結(三位)は鰹と続く。ちなみに西(里の食べ物)は、大関がしいたけ、関脇がだいこんである。同時期に広重が描いたこの鯛の浮世絵は、魚づくし12枚のなかの一作品で、鯛を筆頭に、縞鯛・あいなめという順序であることからも鯛の人気の高さがうかがえる。
現代とイメージが違うのは以外にもマグロ。本マグロは現代なら、魚の王様の感があるが、江戸時代は下魚(げざかな)であった。下魚とは下等な魚のことである。したがって値段も安い。赤身は「ズケ」にして鮨ネタになったが、トロの部分は痛みが早く捨てられていた。もったいない話だが、冷凍技術がなかったからしかたない。脂の多いトロが当時の人々の口に合わなかったことも考えられる。赤身のほうが好まれた歴史は続き、トロが脚光を浴びるようになったのは昭和になってからだ。江戸時代の武家はあまりマグロを食べなかった。マグロの別名、シビウオやシビが死日に通じるとして避けたからである。フグも中毒の危険性があるので下魚とされた。

鯛は、見栄えのする姿や形、紅白の色もあり、祝膳にぴったりの魚である。高価な魚ゆえ、江戸庶民の口にはめったに入ることはなかっただろう。庶民はイワシ、ニシン、サンマといったところか。
江戸で鯛が人気を集めたのは、徳川家康が海に面した三河(愛知県東部)出身であり、遠江(静岡県西部)を治めていたことも関係している。江戸には家臣や多くの人々が移り住み、鯛を食べる習慣が出来上がったとみていいだろう。皮肉にもその当人の家康の死因は、鯛の天ぷらを食べて中毒死したという (現在は胃がん説が主流か)。
幕府を開いたほどの英傑が中毒死とは残念だが、ナンバーワンの魚、鯛であったことに納得しよう。高級な鯛を先進料理法である天ぷら(空揚げか、すり身を揚げたものか?)で食べたのは事実である。天ぷら中毒が遠因だったにせよ、享年74。天下人となり、おいしい鯛も食べて武将としては目出たく天寿を全うしたことになりそうだ。

 
羽根付きたい焼き(神田達磨/千代田区神田小川町2-1 tel.03-5280-0870)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
羽根付きたい焼き
(神田達磨/千代田区神田小川町2-1 tel.03-5280-0870)
絵画的なおいしさ、たいやき神田達磨。

このたい焼き一風変わっている。背景(?)がある。このバリのような部分は羽根(はね)と呼ばれている。四角い羽根付きのたい焼きは、まな板の上の鯛にも見えるし、額縁に入った鯛のようでもあり、見るだけでも楽しい。
以前、有名な「たい焼き論争」があった。しっぽに餡(あん)が入っているのが正しいか、入っていないのが正しいかという論争。餡がないのは何か損をしたような気分でよろしくないという意見と、しっぽは口なおしに食べる部分で甘い餡は不要という考え方の対立だった。
羽根付きのたい焼きは、この論争を無用のものにしてしまっているかのようである。「神田達磨」のたい焼きは、しっぽまで自家製の餡が詰まっているし、その周りの羽根にはもちろん餡は入っていない。羽根の部分は口なおしにちょうどいい。どこかお得感もある。
たい焼きの前身は、江戸時代に生まれた今川(いまがわ)焼きである。神田の今川橋(現存せず、交差点名に残る)の近くで売られたのが最初で、評判になり名称になった。たい焼きが登場するのは明治の末頃。なぜ鯛の形なのか? 縁起の良い魚であり、庶民にはなかなか手の届かないあこがれの魚だったからだろう。たい焼きの発祥の地は緒論あって特定が難しいのが現状である。
たい焼きの世界の言葉は面白い。天然物と養殖物がある。一匹ずつ焼くのが天然物、何匹も連結した焼き型で焼くのが養殖物なのだそうだ。なにかインチキ臭い気もするのだが…。そんな野暮な考えは後にして、おいしくいただこう。お店で買ったら、アツアツのうちに食べるのが一番。子供と一緒に、友だちやカップルと。たい焼きは、楽しい会話が生まれてきそうな食べ物である。

文 江戸散策家/高橋達郎
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