200年前の江戸の銭湯にタイムスリップしてみよう。時は文化年間(1804~1818)、江戸の町民文化が活況を帯び発展した時代である。この肉筆の浮世絵、生き生きとした軽妙なタッチがそう感じさせるのか、男たちはちょっと浮かれているようにも見える。
銭湯は、江戸では「湯屋(ゆや、ゆうや)」と呼び、上方では単に「風呂」「風呂屋」と呼んだ。いずれにせよ江戸時代もこの頃になると、公衆浴場は人々になくてはならないものになっていた。
湯屋に入るとまず番台で湯銭(入浴料)を払う。当時は番台でなく高座(こうざ)と呼ばれた。この時代の湯銭は十文(約250円)、蕎麦一杯(十六文)よりもだいぶ安い。脱衣場の様子はここには描かれていないが手前の方だ。衣類は、壁際の戸棚かカゴに入れたのだろう。洗い場は、板の間で傾斜をつけた流し板になっている。
中は混み合っているようである。軽石で足の踵(かかと)をこすっている人(中央)、爪を切っている人(左)、髪の毛をとかしている人(右)もいる。よく見ると、爪切り用のハサミにはひもで板きれが、櫛にもひもが付いている。これらは誰でも自由に使えたが、持ち帰れないよう工夫されていた。風呂桶に腰かけて股間を覗き込むようにしている男は何をしているのか?
股間のお手入れをしているところのようである。石を二つ用いて余分な陰毛をはさみ、擦り切るのが当時の方法で、この石を「毛切り石」という。なぜそんなことをしたのかといえば、着物を尻端折り(しりっぱしょり、しりはしょり)にするからだ。尻端折りとは、着物の裾を折り上げて帯に挟み込むおなじみのスタイル。その場合、着物の下は褌(ふんどし)だけになってしまうので、男の身だしなみとして気を使ったのである。
湯船に行くには、家の入り口のような所から身を屈(かが)めて入る。ここを石榴口(ざくろぐち)と呼ぶ。その呼び方には理由がある。当時の鏡は銅製で、鏡をきれいに磨くにために石榴の果汁に含まれる酢分を利用したという背景がある。「鏡要(い)る」と「屈み入る」、かがみいる入り口だから石榴口と洒落たわけである。
石榴口をくぐって一段板を上がれば、そこが湯船である。湯屋の構造は、内部にもう一つの湯船専用の小さな家があるようなもので、なるべく湯船のある空間全体を遮蔽して湯が冷めないよう工夫した。結果、まるでシャッターが半分下りたような石榴口で身を屈めることとなったのだ。寒い時期などは特に、ひんやりした空気やぬるいお風呂では具合が悪い。湯屋も商売である。あたたかい空気や湯気を逃がさないようにすれば、薪代の節約にもなった。
現代の銭湯にもマナーがあるように、湯船に入るときは特有のマナーがあった。『冷者でござーい』『田舎者でござーい』とか『ごめんなさい』などと言いながら入るのが礼儀だった。これは“冷たい体で湯につかるので湯が冷めてすみません”くらいの意味だろうが、他の客とのコミュニケーションをとる必要がどうしてもあったのではないかと思われるのである。湯船のあるところは薄暗く、湯煙が立ち込めているとしたら顔もはっきり見えず、素っ裸の無防備状態で知らない者同士が同じ湯につかって心地良いはずがない。何か一声掛け合って安心感を共有したのだと思う。湯屋の客は町人をはじめ、江戸勤番の武士や浪人もいて、それぞれの身分の人がうまく折り合いをつけて暮らしていた。湯屋が身分を超えてのコミュニケーションの場であり、娯楽の場であったことは面白い。男湯の二階には休憩スペースがあり、碁を打ったり将棋を指したり、世間話をしながら茶菓子も楽しめた。
江戸時代の湯屋の様子がはっきりしてくるのは、この浮世絵の登場(19世紀初頭/文化年間)以降のことである。式亭三馬(しきていさんば)が滑稽本『浮世風呂』を完成させたのが文化10年(1813)、葛飾北斎も『北斎漫画』のなかに湯屋の画を残しており、江戸後期の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、湯屋風俗が詳細に解説されている。本稿の内容もこれらの史料に拠るところが大きい。
湯屋の実態は、男湯・女湯のあるもの、男湯専用、女湯専用の他にも、風俗店を兼ねたもの、入込湯(いりこみゆ)と呼ばれた混浴など、様々なタイプが存在していた。幕府の統制もあったが、それも効いたり効かなかったり、また火事で燃えてはまた建てられた湯屋。これらの湯屋は混然一体となって明治を迎えるのである。
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