東京スカイツリーの竣工、オープンにより、各メディアで「ランドマーク」という言葉に出会うことが多くなった。ランドマークとは、単純には目に付きやすい地形や建造物で目印になるものをいうが、シンボルや象徴という意味では、主義や主張、精神面も含んでいるから奥が深そうである。東京スカイツリーは世界一位の高さを誇る自立式電波塔、まさしく東京の新しいランドマークだ。
江戸のランドマークは江戸城である。日本橋や有力寺社もそうであったに違いないが、江戸城の天守は別格だった。その大きさといい、風格といい、日本のナンバー1の天守であった。
「将軍様のお膝元」という表現は、江戸城天守を仰ぎ見て暮らす人々の、誇りに満ちた心情を上手く表していると思う。見ることのない徳川将軍を、江戸の太平を見守る江戸城や巨大な天守に重ねたのかもしれない。江戸の庶民にとっても江戸城は自慢だったのだ。
天守は江戸時代を通じて建っていたわけではない。明暦3年(1657)の大火で焼失するまでである。それまで二度建て直されている。つまり短期間に三度も天守を建てた。最初の天守は徳川家康が慶長11年(1606)に建て、二代将軍秀忠が元和8年(1622)に二度目の天守を、三代将軍家光が寛永15年(1638)に三度目の天守を建てた。 明暦の大火で天守が焼失したのは四代将軍家綱のときである。当然四度目の天守を建てる運びだったが、保科正之(ほしなまさゆき)の進言により先送りとなった。その内容は、天守造営に莫大な費用をかけるより、江戸の大半を焼いた明暦の大火後の町の復興を優先させようというものだった。保科正之は会津藩初代藩主、秀忠の四男(家光の異母弟)で、将軍家綱は甥にあたる。将軍の補佐役として幕閣の重きをなし名君と賞された人物である。しかし、このとき先送りになったまま再び天守が建つことはなかった。
今、にわかに江戸城天守を再建しようという運動が活発化してきている。「江戸城再建を目指す会」は、平成23年に認定NPO法人の資格を得て会員約三千人、民間の草の根運動を展開中だ。理事長の小竹直隆氏は『再建する天守を伝統と文化を象徴するシンボルに、21世紀における日本再生の新しいシンボルにしたい』と語る。
会設立のきっかけは『ロンドンにはバッキンガム宮殿、パリには凱旋門やベルサイユ宮殿、ニューヨークには自由の女神というように、その国の文化・歴史を象徴するものがあるが、東京には…?』という素朴な疑問だったという。なるほど、外国人を案内するときは、よほどの日本通でない限り、東京タワー、皇居前広場、浅草・浅草寺というコースにどうしてもなってしまう。他に目玉がないのが実情である。新しく東京スカイツリーが加わったのはありがたい。
東京スカイツリーは日本の文化や歴史のニオイはしないが、面白いことにそれらはみな、あの巨大な建造物に生きているようである。
タワーの構造は法隆寺の五重塔の免震機能を応用したものだという。外観のカーブは日本の伝統美の一つ、日本刀などの「反り(そり)」を表現。タワーのカラーは、これまた日本の伝統色の「藍白(あいじろ)」をベースとしたオリジナルカラー「スカイツリーホワイト」である。ライティングも江戸を意識して「粋」「雅」と名付けられている。極めつけはタワーの高さ、武蔵(634メートル)だろう。
技術の結集した最新の電波塔にこのような意味をもたせるのは、日本人の素晴らしい知恵だと思う。日本人は、やっぱり文化や歴史、伝統が大好きなのだ。有形、無形の日本固有の財産を守りながら、これらを未来につなげていきたいと多くの人が思っている。
ならば、いろいろな意見もあるだろうが、江戸城天守がかたちとしてあってもいい。江戸城は550年前(室町時代)に太田道灌が築城(当時はまだ天守はない)したのが始まりである。北条氏の支配を経て、小田原の役(1590)後に徳川家康が江戸入城。家康は江戸城を拡張し城下を整備、この地に初めて天守を聳えさせた。そして二百六十余年にも及ぶ平和な江戸時代のまさに礎を築いたのである。
今後の「江戸城再建を目指す会」(http://npo-edojo.org/)の動向に注目していきたい。国内最大となる江戸城天守が再建されれば、観光拠点となるばかりか、新しいランドマークとして、東京のシンボル、日本のシンボルになることはまず間違いないだろう。 |