富士見茶亭(ふじみぢゃや)のある行人坂は、富士見の名所として知られていた。勾配の急な坂で、現在の行人坂を歩いてみてもかなりのものである。歴史好きの方なら、話題の豊富なこの坂を歩いてみたい。JR目黒駅の西口を出るとすぐに三井住友銀行があり、そのビルの左脇から西に下っている坂が行人坂である(ビルの右側の大きな通りは権之助坂)。茶屋があったのは、ちょうどこの銀行(あるいはその裏側)の辺りである。
目黒という場所は、江戸時代を通じて人気の高い行楽地である。誰もがときどきは行きたいところだった。理由をあげてみると、まず「目黒不動尊」「大鳥神社」をはじめとする有名寺社があること。自然が豊かで眺めのよい景勝地であること、つまり、小高い山(台地)があるような地形で坂を伴っていることだ。目黒には西方に下る急な坂がいくつもあって、そこからは富士山がよく見えた。富士山を拝めるということは当時の人々にとってとてもありがたいことだったのだ。徒歩で回る一日の行楽にちょうどよい距離にあったことも目黒が人気スポットだった理由の一つである。
行人坂を有名にしたのは「行人坂の火事」だろう。明和9年(1772)、行人坂の途中にあった「大円寺(だいえんじ)」から出火(悪僧による放火)。火の手は強風にあおられ浅草方面まで及び、江戸市中の約三分の一を焼き尽くした。亡くなった人が一万四千七百余人という被害規模は、江戸時代の大火のうちでも二番目に大きな火事となった。「江戸三大大火」と一般に呼ばれているのは、明暦3年(1657)の「明暦の大火」、天和2年(1682)の「八百屋お七の火事」、そしてこの「行人坂の火事」である(諸説有り)。お七の火事よりも被害が大きかった火災は他にいくつもあるが、なぜ三大大火に入るのかはよく分からない。おそらく八百屋の娘お七が、恋人である寺小姓の吉三(きちざ)に再会するために放火してしまったという出火原因(真偽不明)に悲しい物語性があって、お七伝説として人々の記憶に長く留まったのではないだろうか。
行人坂の名前は、江戸初期に出羽三山(山形県)の修験僧が大日如来(だいにちにょらい)を祀って祈願道場を開き修行に励んだことによる。彼らを行人(ぎょうにん)と呼んだことからこの名前が付いた。この祈願道場こそが名刹「大円寺」の始まりである。ここを訪れて目を奪われるのは境内の一角の石仏群、五百羅漢(ごひゃくらかん)と呼ぶ。一体一体が違う表情をもつ何百体もの石仏が立ち並ぶ光景は壮観である。これらの羅漢像は行人坂の火事の犠牲者を供養するために50年もの歳月をかけて造られたという。羅漢とはもともと修行僧の意味で、火事で犠牲になった人々の霊を慰め、平和な世界を願う江戸の人々の祈りが込められている。
火事にまつわる興味深い話がもう一つ、行人坂には残されている。前述「八百屋お七の火事」のお七は放火犯として捕らえられ処刑されてしまうが、恋人だった吉三は僧侶となり西運(さいうん)と名を改め、お七の菩提を弔う諸国行脚の旅に出る。江戸に戻って入った寺は目黒の「明王院(みょうおういん)」。ここでも西運はお七の菩提を弔うための修行を続けることになる。言い伝えでは、浅草観音までの往復10里(約40キロメートル)を、念仏を唱えながらの1万日(27年5カ月)の荒行(隔夜日参り)を成し遂げたとき、お七の成仏したことを夢枕で知らされ「お七地蔵尊」を造ったのだという。また、その間に多くの江戸市民から集まった浄財で、歩きづらかった行人坂に敷石の道を造ったり、目黒川に丈夫な石造りの太鼓橋(たいこばし)を架けるなど、西運は数々の社会事業を行った。
偶然にも明王院は後に「行人坂の火事」の火元となる大円寺の隣にあった。明王院は明治期に廃寺になり(現在は目黒雅叙園)、仏像等は再建された大円寺に移され、寺そのものが吸収合併された。したがって、西運やお七に関係するものは今すべてこの大円寺にある。偶然の一致か不思議なことに、お七が放火したのは駒込の大円寺という名前の寺だった(自宅放火説も有り)。
行人坂の途中、目黒の大円寺には今も多くの人がお参りに訪れる。火災などの天災除けを願う人、大円寺の再建が叶ったように復興を祈る人も多いだろう。恋愛成就のご利益もありそうなお寺だ。境内には西運(吉三)の姿を刻んだ石碑とお七地蔵が仲良く並んでいる。
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