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江戸散策
文 江戸散策家/高橋達郎
コラム江戸
第80回 太鼓橋の向こうには“目黒三社”の目黒不動。
『名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡』広重  『江戸自慢三十六興 目黒不動餅花』広重、豊国
出典:国立国会図書館貴重書画データベース

『名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡』広重『江戸自慢三十六興 目黒不動餅花』広重、豊国
出典:国立国会図書館貴重書画データベース

 

目黒の行人坂を下ると、目黒川に架かる太鼓橋があった。この橋を西に渡った先には、知られた寺社が数多くひかえており、なかでも“目黒三社”といわれる「目黒不動尊」「大鳥(おおとり)神社」「金昆羅 (こんぴら)」は有名で、他に「岩屋弁天」「蛸薬師(たこやくし)」などもある。安政4年(1857)の江戸切絵図(地図)を見ると、この辺は百姓地に囲まれて寺社がまとまって門前町を成している。江戸の人々に目黒は人気の行楽のスポットであったことは間違いなく、多くの人々が参拝を兼ねて遊びにやってきた。

太鼓橋は江戸の名所でもあり美しい橋だった。『江戸名所図会』には「…柱を用いず、両岸より石をたたみ出して橋とす。ゆえに横面よりこれを望めば太鼓の胴にさもにたり…」と記してある。石造りの太鼓橋は当時としてはたいへん珍しかったのではないだろうか。人々はお不動様の縁日や大鳥神社の酉(とり)の市に行く途中、わくわくしながらこの橋を渡ったことだろう。
現在もこの地に太鼓橋がある。名前こそ太鼓橋のプレートをつけているが、どういうわけか、がっかりするほど普通の橋になってしまった。再建を願いたいものである。ただクルマは通れなくなるだろう(迂回する道路・橋はある)。

「目黒不動尊」は、寺名を泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、不動明王を本尊とする天台宗の寺である。目黒不動、お不動様とも呼ばれ親しまれてきた。開山は平安時代の大同3年(808)、慈覚大師(じかくだいし)。成田不動尊(千葉)、木原不動尊(熊本)とともに「日本三大不動」の一つに数えられる。将軍家の帰依を受けて江戸時代は興隆を極めた。特に三代将軍家光とのかかわりは深く、この辺は将軍家の鷹狩り(たかがり)の場でもあった。
江戸には「江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)」があった。幕府は江戸城を守り江戸鎮護のために五色の不動を配置したと説明されることが多い。しかし、少なくとも目黒については誤りである。目黒は江戸時代よりもはるかに古く、鎌倉時代の『吾妻鏡』には人名としてすでに登場している。目黒氏という武士団がこの近くに城館(目黒氏館)を建てて治めていたという。江戸時代以前に目黒は地名として定着していたようである。どうやら、幕府は都合よく目黒の地名を利用したことになりそうだ。
浮世絵にあるように、目黒不動尊の仁王門(におうもん)はたいへん立派だった(現在の仁王門は戦後の再建)。本堂は奧の石段を上がった所にあったが、広重は本堂を描かずに門を題材にしたくらいである。左側に描かれている二筋の滝は「独鈷(とっこ)の滝」。説明板には、千二百程前(開山当初)からの滝泉で、日照りが続いても今日まで涸れることもなく滔々と落ちていて、長く不動行者の水垢離(みずこり)の道場として利用されてきたという意味のことが書かれていた。こんな都会でそんなことがあるのかなと思うのだが、よく見ると浮世絵と同じ場所に今も滝があって、勢いよく水が落ちているのだ。滝に打たれて修行する行者のシーンとしては、あまりにもイメージがぴったりで、ちょっと不思議な雰囲気の滝ではある。

「大鳥神社」の創建は目黒不動尊とほぼ同じの大同元年(806)。主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、区内最古の神社であり、今も賑わいをみせる酉の市は江戸時代に浅草に倣って始まった。直接神社とは関係ないが、ここにはめずらしい切支丹灯籠(きりしたんどうろう)がある。キリシタンへの弾圧が厳しくなった時代、イエス像を仏像にみせかけて灯籠の竿石(さおいし/灯籠の本体部)に刻み込み、密かに信仰したのだという。この灯籠はある大名の下屋敷に祀られていたもので、今は大鳥神社境内にあり、いつでも見られる。仏像に偽装したイエス像というのは意表をついたアイデアだ。近くで確認したところ、イエス像のようだというレベルで、残念ながらそれ程はっきりしない。言い逃れるためにわざと曖昧に彫ったのか、350年余りもの風雪がそうさせたのかはよく分からない。

「金昆羅」はかなり広大な土地を有した寺なのに、跡形もなくなっている。寺というのは「高幢寺(こうどうじ)」のなかに「金昆羅」があったからで、こちらの方が有名だった。江戸切絵図では「金昆羅大権現」と書かれている。廃寺になったのは明治の初め、新政府の「神仏分離令」と「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動によるものである。 
寺社の多くは“神仏分離”に何とか対応して現在に続いているわけだが、それができなかったのはなぜか。明治新政府の中枢となった雄藩の一つ、薩摩藩の庇護のもとに「金昆羅」があったためと推測する。立場として自ら厳しく対処せざるを得なかったのだろう。
現在の位置としては「大鳥神社」から西に目黒通りを少し上ると多摩大学目黒中学校・高等学校があり、その通りの反対側にあたる。今はアンティーク家具のショップが立ち並び、その奧は住宅街だ。それでも何か遺っているかと思い歩いてみたが見あたらず、歩道脇に坂の名前「金昆羅坂」を説明した碑があるだけである。

 
蛸薬師 本堂脇の額 (目黒区下目黒3-11-11)
ちょっと江戸知識 コラム江戸
蛸薬師 本堂脇の額 (目黒区下目黒3-11-11)
タコがカワイイ蛸薬師(成就院)。

目黒不動商店街の中ほどにある成就院本堂の壁に掲げられた大きな絵画、これはいったい何だろう。寺社によくみられる奉納絵馬の類のようではあるが…。境内に足を踏み入れると、真っ先に目に飛び込んでくるのがこの巨大なタコである。信仰の対象に向かって“カワイイ”などとは不遜な言動のような気もするが、若い人たちが今風に使いこなす言葉としては“カワイイ”がぴったりくるのだ。このタコ、誰が見ても面白い。ひょうきんで、奇抜で、楽しく、ある意味おしゃれですらある。寺の宗派や縁起、仏像などを知る楽しさとは別に、こんな歴史の楽しみ方があってもいいと思う。
蛸薬師に行くと、誰もがこのタコを見て微笑んでしまうだろう。ここを訪れる観光客を見ていると、とても和やかな雰囲気である。笑っている。参拝者のその笑顔の向こうにはきっと幸せもあるんだろうなぁ、なんて気もしてくる。仏教には宗派もあれば教義もあるだろうが、単純に考えてみれば、もともと寺は人々を救ったり、幸せにするためにあったと自然に思えてしまうのだ。
“ありがたや 福をすいよせる たこ薬師”と、大胆なコピーが平然としている。蛸=多幸から別名「多幸薬師」とも呼ばれ、正式名称は「蛸薬師成就院」。願い事が何でも叶いそうな名前尽くしの寺である。
縁起によれば開山は天安二年(858)、伝教大師最澄の高弟、慈覚大師(じかくだいし)。蛸薬師の名前は、荒れた海を鎮めるために海に投げ入れた小像が、蛸に支えられていたという故事に由来する。本尊は薬師如来(秘仏)、江戸時代には三代将軍家光の帰依を受けて発展した。現在の建物は戦災後の再建によるものである。
蛸薬師の御守りや絵馬に描かれているタコもまたユニークでカワイイ。また、イボ、タコ、魚の目にも効くといわれる薬師様であることも付け加えておきたい。

文 江戸散策家/高橋達郎
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