何とも不思議な妖気が漂う浮世絵である。狐たちが木の下に集まっている光景は、広重晩年の『名所江戸百景』のなかでも、ひときわ異彩を放つ傑作である。なぜこういうテーマを広重は選んだのか、それはこの物語が江戸時代、広く人口に膾炙(かいしゃ)していたことにほかならない。
同じテーマの絵柄が当時すでに『江戸名所図会』で発表されているので、その説明文を紹介しながら話を進めよう。
『毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐おびただしくここに集まり来たること、恒例にして今に然(しか)り、その灯せる火影によりて土民明年の豊凶を卜(うらなう)とぞ、このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし』。見出しには『装束畠 衣裳榎(しょうぞくばたけ いしょうえのき)』とある。
物語の場所は現在のJR京浜東北線・東京メトロ南北線「王子駅」から歩いてすぐの所。浮世絵に描かれたこの辺りは、近くに王子神社(王子権現)や王子稲荷神社があるものの、田畑が広がり草が茫々と生い茂っていた。題名が示す通り、榎(えのき)の木が装束畠と呼ばれる畑に生えていた。この大木は「装束榎」とも「衣裳榎」とも言われる。装束とか衣裳と名が付くのは、この榎の下で狐が着替えをするからである。関東に棲む狐たちは大晦日にここで身支度を整え正装し「王子稲荷神社」まで初詣に行くのだという。「装束榎」は狐たちの待ち合わせ場所だったのである。
この浮世絵の様子では、木の下の狐は誰(?)もまだ着替えていないようだ。きっと、ドロンッとやればすぐに着替えられるのだろう。右後方に見える狐の大群は、もう着替えを終えて「王子稲荷神社」に向かっている様子である。残念ながらどんな衣裳かは闇に紛れてよく判明しない。狐は狐火(きつねび)という明かりを持っているので道に迷うことはないだろう。遠くに見える黒いこんもりした山が「王子稲荷神社」だ。このときの狐火がたくさん見えると来年は豊作、少ないと凶作という占いを土人(その土地の人)はしていた。しかしその狐火はいつ出るか時刻が分からないと、説明文では都合の良いことを言っている。なかなか判断がつかない占いのようだ。
狐たちが初詣に行く先は現在もある「王子稲荷神社」。「装束榎」から200~300メートル離れている。関東の狐が揃って参拝するくらいだから当然格の高い稲荷神社のはずだ。神社の由緒記では、源頼義(平安中期の武将、源頼朝の祖先)が奥州平定(前九年の役)の際、この稲荷を「関東稲荷総司(かんとういなりそうつかさ)」と崇(あが)めたとされている。さて、関東稲荷総司とは何か。関東の稲荷の総元締ということにでもなろう。平安時代の関東とは京都より東の国を総じた言葉で、東国三十三ヵ国を普通は意味する。その関東の稲荷を司るということは、古くから相当高い社格を有していたことは確かだ。ただ江戸時代になってから、なぜか“関東三十三ヵ国”から“関八州”の総司に範囲が狭まっている。あまりにも広すぎたためか、理由はよく分からない。関八州とは、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八ヵ国(東国三十三ヵ国は略)。
いっぽう、「装束榎」のある場所には地元の人々によって祠(ほこら)が建てられ「王子稲荷神社」の摂社として「装束稲荷神社」となった。現在ある場所は道路拡張のため少し東に移動しているが、今も何代目かの榎が神社境内に御神木として祀られている。
関八州に限っても、狐はいったい何匹いたのだろう。榎を目印に集合したのはなぜか。榎は狐が好む木かどうかは知らないが、それは木の枝めがけて飛び跳ねて高さを競うためだという。狐にも官位(身分)があるようで、高く跳んだ狐が高位につける。その結果を持って「王子稲荷神社」に初詣に行き、いわゆる年一回の狐サミットを開催し承認を得て、稲荷大明神に官位を授けてもらうのだそうだ。高位についた狐の出身国は豊作が約束されるとでもいうのだろうか。狐が五穀豊穣を司る“稲荷大明神の使い”とされるのは、このような務めを果たしているからだということだろう。豊作を祈る人々は狐を神獣と考えた。ときどき人間を化かしたりもするが、ありがたい存在だった。狐に化かされたような話になってしまったが、物語は大体こういうものである。
稲荷神社の本家本元は京都の「伏見稲荷」である。「伏見稲荷大社」は全国の稲荷神社の総本社として名高い。江戸時代には稲荷信仰がとても盛んになった時代である。食物神・農耕神だけでなく、商売繁盛の商業神、漁業神、屋敷を守る神として広く信仰を集めた。「伏見稲荷」からの勧請、勧請先からの勧請、分霊などした結果、江戸中稲荷だらけになった。各町には一つや二つの稲荷は必ずあったし、大名屋敷にも商家や長屋の敷地内にも、遊郭にも稲荷という具合だ。まさに江戸は「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」状態であった。
●装束稲荷神社 北区王子2-30-14
●王子稲荷神社 北区岸町1-12-26
|