鷽(うそ)とは鳥の名前、古くから幸運を招く鳥とされている。JR亀戸駅から天神様へ歩いて行く途中、鷽替えの鷽をモチーフとした案内板(案内鷽?)が交差点脇に立っている(写真)。
前年の木彫りの鷽を天神様に納めて新しい鷽を買い求め、毎年取り替える行事が亀戸天神社の「鷽替神事(うそかえしんじ)」である。昨年の凶事を今年の吉事に取り(=鳥)替えて、悪いことは嘘(=鷽)にしてしまおうという手の込んだ洒落だ。
こういう洒落が江戸の人々は大好きのようで、天神様へのお参りを楽しんでいるかのようである。この木彫りの鷽を一年間自宅の神棚に飾ったり、懐中したりして御守りとした。昨年の困ったことや悩んだことなどあまりくよくよせずに、一年の開運を願う参拝も楽しみながらやってしまうのは、江戸庶民のユニークさであり強さだった。亀戸天神社の「鷽替神事」は創建当初からあったものではなく、江戸時代の文政3年(1820)から始まり、今も毎年(1月24・25日)続いている、誰でも参加できる行事である。
江戸時代には、人々が境内に鷽を持ち寄り『替えましょ、替えましょ』の掛け声(歌い声)で鷽を取り替える風習があったという。これでは、誰の鷽が自分の所に回ってくるか分からない面白さもある反面、他人の昨年の鷽をもらったところで、今さらどうかとも思う人もなかにはいたのではないだろうか。これをやめたのはどんな理由か不明だが、考えてみると他にもありそうである。この方法では鷽は毎年毎年使い回しされることになり消費が増えない──神社としてもそれはちょっと、という事情もあっただろう。やはり今のように、前年の鷽を神社に納めて、新しい鷽を買って取り替えるほうが気持ちいいし、効き目もありそうだ。
この時季、梅は芽が出たばかりでまだ蕾の状態。それでも少し開花し始めている気の早い梅木もある。『東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春なわすれそ』の有名な歌の通り、天神様(菅原道真)と梅は深い関係だ。道真の家紋も天神様の社紋も、少々デザインは変わるがみな梅である。当然、御神木は梅の木ということになる。「鷽替神事」を終えて「節分」を過ぎ、しばらくすると「梅まつり(二月第二日曜?三月第二日曜)」、境内は梅の香りにつつまれる。さらに五月になれば今度は「藤まつり」だ。
梅がつきものの天神様だが、江戸後期には梅より藤が知られ、藤の名所となった。広重の浮世絵のように、現在も江戸時代を彷彿させるかのような藤見ができる。一方、江戸時代の梅の名所はすぐ近くの「梅屋敷(呉服商・伊勢屋彦左衛門の別荘/清香庵)」に御株を奪われた感がある。ここには見事な「臥龍梅(がりゅうばい)」があって、こちらも人々を呼び込んだ。この梅の木もまた、広重の浮世絵で知られている。江戸の人々は、梅見、花見(桜)、藤見、菊見など、季節の花に興ずる遊楽は現代人の比ではなかった。
亀戸天神社は、寛文元年(1661)に菅原道真の子孫でもある、筑前(福岡県)太宰府天満宮の神職が江戸に下り、亀戸に道真公を勧請したことに始まる。もうその翌年には幕府(四代将軍家綱の時代)の支援を得て、太宰府の社のような社殿や楼門、心字池や太鼓橋などが出来上がっている。
全国にある「天満宮」は、元をたどるとすべて九州太宰府からの勧請の歴史をもっている。したがって、神事も太宰府と同様なものが多い。鷽替えもその一つで、大阪天満宮、道明寺天満宮、滝宮天満宮などでも太宰府に倣って今も執り行われている。江戸では「湯島天満宮」と「亀戸の天神様」が知られ、現在も続いている。
ここの天神様にはいろいろな呼称がある。「亀戸天神」や「亀戸天満宮」、江戸時代の地誌には「宰府(さいふ)天満宮」の表記もあり、明治に入って「亀戸神社」となった。昭和11年(1936)からは「亀戸天神社」が正称となっている。それはそれとして、一般の人々は、江戸時代からずっと「亀戸の天神様」とか「天神さん」と呼んで親しんできた。これからもきっとそうだろうと思う。
天神とは天満大神(てんまんおおかみ)のことで、道真公を指す。天神様は開運招福・無病息災・家内安全・大願成就など御利益は色々あるが、現代では特に学問の神様として人気が高い。鷽との関係は、鷽は天神様のお使いの鳥ということになっている。そこから学業成就や試験合格を叶えてくれる鳥として脚光を浴びることになった。あるとき木彫りの鷽が考えられたのだろう。この木は梅の木だろうと思っていたが、どうも感じが違うので念のため聞いてみたら、檜(ひのき)だと神社側からの説明があった。神職の手で一体一体作られるのだという。
天神様の鷽にはこんな話もある。鷽が天神様の鳥になった経緯は、道真公が蜂の大群に襲われたとき鷽が助けてくれたという伝説、太宰府境内の樹木につく害虫を駆除してくれたという言い伝えも残る。面白いのは、「鷽」という字は、学問の学である「學」に似ているから天神様の鳥になったというもの。洒落のような少々強引な理屈。確かに、似ているといえば似ているか…?
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