あまり馴染みのない言葉だが、滝に打たれたり、眺めて楽しんだり、その滝の水で遊んだりして涼を求めることを「滝浴み」という。この漢字や言葉の響きからは、江戸時代の人々や庶民文化の匂いがしてくる。水遊びと言ってしまえばそれまでだが、「滝浴み」という言葉に置き換えられた瞬間、世界が違ってくる。
夏の暑い時期になると、人々はせっせと涼みに出かけた。隅田川のほとりを歩いたり、上野不忍池の周りで遊んだりして暑い日を過ごした。「涼」を求める行為は、このサンズイの字が示す通り「水」をとることに他ならない。海、河、池、それに滝だ。
滝は江戸のどこにあったのだろう。もっともメジャーだったのは、この広重の浮世絵に描かれた王子界隈の音無川(おとなしがわ)流域である。今では想像もつかないが、地勢的には飛鳥山と王子の台地にはさまれた渓谷で、両岸の断崖からは幾筋もの滝が形成されていたようである。俗に「王子五滝」「王子七滝」と言われたように滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富だった。
なかでも「不動の滝」は有名で、この絵は大げさにも思えるが、広重が残した浮世絵中最大の滝である。滝近くの褌(ふんどし)姿の男、これがまさしく滝浴みをしている光景である。手前には滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている様子だ。心地よい滝の音や飛沫(しぶき)を感じながら、一時の清涼感につつまれている彼等もまた、滝浴みをしているのである。
同様の滝の絵が『江戸名所図会』にも紹介されており、こちらには滝の右側に水中よりすくい上げられたという物語をもつお不動様が鎮座している。名前の由来となった不動尊は、現在「滝不動尊」として正受院(北区滝野川2-49-5)に安置されている。この像は一般には公開されてはいないが、申し込めば見学も可能だ。「不動の滝」があった場所は、正受院本堂の裏から坂道を下った音無川の岸にあったことが判明している。石碑は建っているものの、現在跡形がまったくなくなってしまったのが残念である。
この浮世絵はどこか不思議な空気をもっている。そそり立つ滝、バックには黒々とした岸壁、注連縄(しめなわ)もかかっている。当時のちょっとした霊場、パワースポットか。滝の近くにいる男は危なくはないのだろうか。これほどの滝壺に、万一はまったらたいへんである。
そんな心配はさておき、江戸の人々はこの「不動の滝」に好んで足を運んだ。特にこれといった信仰的意味のある滝でもなく、行者が修行するような滝でもなかった。ただ涼を求めて、滝の流れを見て、音無川を楽しみにやってきた。行楽として江戸の下町から歩いてちょうどいいくらいの距離である。
王子界隈に訪れる人々の目的は、滝だけではない。一年を通じていろいろな楽しみがあった。飛鳥山の花見を筆頭に、音無川流域の紅葉、台地からの見晴らしもよく、風光明媚な王子は月見や雪見も楽しめた。加えて有名寺社も多く、なかでも王子の地名の由来となった「王子権現(現王子神社)」や、関東稲荷総社の格式をもつ「王子稲荷」もある。武士も町民もこれらの参拝を口実にしては、ここに出かけて遊んだのではないかと思う。音無川の流域には、行楽客目当ての茶屋や料理屋も数多くあり、八代将軍吉宗が飛鳥山を整備した頃には、一大観光地になったのである。
現存する他の地域の滝を二つ紹介しよう。江戸の南、目黒不動尊の境内には「独鈷(とっこ)の滝」がある。こちらは、今も滔々と龍の口から勢いよく水が飛び出ている。1200年前から一度も涸れたことがないという湧き水で、以前は不動行者の水垢離(みずこり)の道場として利用されていた滝だという。独鈷とは密教の仏具の一つで、説明板を見ると、開山当初に慈覚大師(じかくだいし)が自分の持っていた独鈷を投げると、そこから滝水が湧き出たという言い伝えが書いてあった。そういえば、目黒不動尊の寺名は泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)だった。
もう一つは、世田谷の等々力渓谷にある「不動の滝」。雄滝と雌滝という名の二条がそれぞれ流れ落ちている。こちらも目黒不動尊の滝のように龍の口から湧き水が出ている。龍頭が岩間から突き出ている格好で、滝に打たれる修行僧を想像できそうな場所である。
エアコンという直接的に温度や湿度を下げることがなかった時代、人々はいろいろな工夫をして暑さを凌いでいた。見た目の涼しさや気分的に涼しさをつくり出すことも重要だった。今ほどの猛暑の気候ではなかったにせよ、それでも夏は暑い。水を利用した「打ち水」や「行水」などもちょっとした涼しさを味わえたのではないだろうか。日本人の風俗文化の歴史は、水に恵まれた日本列島を背景に、いかに水に関わることが多いか、あらためて気づかされる。
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