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コラム江戸

戦国時代の最後をしめくくった真田幸村。

上田城 本丸東虎口の櫓門(復元) 南櫓(左) 北櫓(右)
(南・北櫓は明治維新後売却されたが、昭和期に買い戻され再移築された)

信州上田城において二度の戦い(第一次・第二次上田合戦)で徳川勢を退け活躍した幸村(信繁/のぶしげ)。関ヶ原の終結後、配流生活を十数年送り捲土重来、大坂城入城を果たした。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣、この合戦で幸村は後世に語り継がれる奮戦ぶりをみせた。大河ドラマ『真田丸』でも大坂夏の陣が最後の山場となる。

ドラマや小説で私たちが接するいわゆる“真田の物語”は、幸村の父昌幸(まさゆき)と兄信之(信幸)親子の3人を中心に展開する。家族が敵味方に別れた戦い、戦国の世の非情さを『真田丸』もいくつかの場面で描いている。
そのひとつは関ヶ原前夜の『犬伏(いぬぶし)の別れ』のくだり、ここは戦国武将の「家族のあり方」「家のあり方」「武士の生き方」を知る部分である。現代の家族・人間関係とは比べようもないが考えさせられるシーンだ。

『犬伏の別れ』とは慶長五年(1600)七月、昌幸(父)、幸村、信之(兄)で行われた話し合いをいう。関ヶ原の戦いを目前にした親子3人の密議である。場所は下野犬伏(栃木県佐野市)の薬師堂(犬伏新町薬師堂)と伝えられ、この薬師堂は今も残っている。
密議では、真田家は東軍(家康方)と西軍(三成方)のどちらに味方すかが話し合われた。結果、昌幸と幸村は三成方に、信之は家康方に付くことに決まり戦うことになる。親子兄弟が袂を分けるのは苦渋の選択ではあったが致し方ない背景があった。秀吉に仕えた幸村は西軍の有力武将、大谷吉継の娘を妻に迎え、一方信之は東軍の有力武将、本田忠勝の娘(家康の養女)を妻に迎えていた。
戦国武将は、有力大名に時には対峙し、臣従し、姻戚関係を結ぶこともあれば人質を出すこともある。家名存続を最優先する武将の宿命というべきか、そうして真田家は生き残った。
『犬伏の別れ』で行われた密議では、昌幸の腹は最初から決まっていたと私は考えている。2人の子どもに敵同士になることを通告したのだと思う。密議は話し合いというよりまさに「別れの儀式」だったのではないか。東西どちらが勝っても真田家は残るというリスク分散説もある。ただそれは結果から導き出された推論であり、それ以外の道はなかったのだと思う。昌幸が西軍に付いたのは家康を相当嫌っていたことと、西軍が勝つと踏んでいたからだ。

しかし、西軍に付き敗者となった昌幸・幸村は、信之の懸命な助命嘆願により九度山へ配流となり生き延びることができた。敵方であっても家族の命を守れたところに、せめてもの安堵を覚える。
なぜ家康が助命嘆願を聞き入れたかは分からない。皮肉にも幸村が10数年後、家康を追い詰め戦国のヒーローとなる歴史(大坂の陣)が待っているのである。幸村は華々しく散っていく、そして大坂夏の陣をもって戦国時代は終焉を迎える。

上田城 西櫓 (現存)
寛永5年(1628)建造

上田城の歴史をみてみよう。上田城は幸村の父、真田昌幸の手によって天正11年(1583)ころ築かれた。上田城が当時脚光を浴びたのは、二度も攻め寄せた徳川軍を撃退したことによる。最初の合戦は天正13年(1585)、徳川勢七千に対し真田勢は雑兵を含めて千七百余で守りきった第一次上田合戦。二度目は関ヶ原の戦いの前哨戦となった慶長5年(1600)の第二次上田合戦だ。このときは徳川勢三万八千、昌幸・幸村の真田勢は二千五百の兵で籠城した (兵数は上田城隅櫓内の説明板による)。

東軍(家康方)の勝利に終わった関ヶ原の戦い後、上田城は徹底的に破却されたのは言うまでもない。家康にとって上田城と真田には何度も痛い目に遭わされたし、第二次上田合戦で足止めされ関ヶ原の戦いに遅れた秀忠にとってもそうとう恨みがあったのだろう。
したがって現在見られる、大河ドラマ『真田丸』に度々登場する上田城の櫓は、批判するつもりはないが幸村の時代にはなかった。大坂夏の陣から数年後、真田信之に替わって上田藩主となった仙石忠政が建てたものだ。関ヶ原の戦い後は信之が上田藩主となったが、家康を憚(はばか)って築城しなかったようである。
幸村がいた頃の上田城は、石垣などの遺構は残るものの面影はない。ただ、幸村の戦国武将としての出発点となったのは、上田の地と上田城であったことに変わりない。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『上田市立博物館・上田城櫓』

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

真田幸村公像

「日本一の兵」真田幸村。

JR上田駅前の騎馬像は、上田城築城400周年を記念して建立された。幸村が上田にいたころはまだ青年期であり若武者のイメージである。上田には上田城をはじめ、真田氏ゆかりの史跡が多く見所が多い。
上田城本丸跡には歴代の上田城主(真田氏、仙石氏、松平氏)を祭神とする「眞田神社(さなだじんじゃ)」がある。上田城を訪れる人が皆参拝する神社だ。
眞田神社の特徴あるご利益を紹介しておこう。それは「試験合格」。上田城は二度の合戦を経験するも一度も「落ちたことはない」城である。そのためか若い人の参拝客も多く、入試の合格祈願の絵馬も掛けられていた。

眞田赤備え兜

境内で目を引くのは大きな眞田赤備え兜(あかぞなえかぶと)。朱色鹿角型の兜だ。前立(まえだて/兜の前部の意匠)は「六文銭」。六文銭は三途の川を渡るときの渡船料という。仏教では「六道銭」を意味し六つの迷界があるということから、穴あき一文銭6枚を棺に入れる風習があったようだ。合戦に臨む真田氏の決死の覚悟を表している家紋である。

幸村の舞台は上田城から九度山、大坂城へと移っていく。大河ドラマ『真田丸』が最高潮に達するのはやはり大坂の陣。大坂冬の陣では、劣勢に立たされた豊臣家を支え、出城「真田丸」を築き、徳川勢を見事に退けた。翌年の夏の陣では、家康本陣に乗り込んで潔い最期を遂げる。大名でもなかった幸村が「日本一の兵」と称えられた。判官贔屓(ほうがんびいき)の国民性からか、幸村は最も人気の高い戦国武将の一人となったのである。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献 『眞田神社 由緒』

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