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コラム江戸

江戸城は、城郭建築の到達点だった。

『江戸御城御殿守横面之絵図』『江戸御城御殿守諸正面之絵図』 東京都立中央図書館特別文庫室 所蔵
(明暦の大火後、再建予定だった四度目天守の絵図)

日本に城はいったい幾つあったのだろうか。戦国時代の頃には千、二千を超える城があったと思われる。城というと一般には天守を想起しがちだが「城」の字の構成を見ても分かるように、土を盛り上げ土塁(どるい)を築いたり地面を掘削して濠(ほり)を造って、櫓(やぐら)や館(やかた)などを建てれば、それはもう立派な城ということになる。歴史を遡ると天守を持たない城は無数にあった。

城=天守という今日的・一般的な見方をすると、本格的な天守を持つ城は織田信長が天正7年(1579)に築いた「安土城」が最初だろう。以降、戦国武将たちはこれに注目し、防衛上の優位性や権威を誇示するために次々に天守を築いていくことになる。
関ヶ原の戦いを経て、慶長20年(1615)の大坂夏の陣直後に徳川秀忠は大御所家康の指示により「一国一城令」を発令している。これは、大名が領地に複数の城郭を持つケースが多く、当時相当数の城郭があったことによる。家康はその戦力を恐れたのだ。例外はあるものの、一大名の居住・政庁となる城郭は原則一城に限るとし、他の城を破却廃城せよという命令で、軍事力のある外様大名には特に厳しかった。結果、全国の城郭は激減、各大名の戦力は削がれた。豊臣家を滅ぼし、天下を完全に手中に収めた後の「一国一城令」の発令からは、用心深い家康の姿が浮かび上がってくる。

その家康が江戸城天守を建てたのは慶長11年(1606)。かつて家康が信長の安土城に招かれて度肝を抜かれたように、今度はそれを超える巨大な天守を建て人々を驚かせた。もちろん、豊臣大坂城を凌ぐ規模である。
江戸城の天守は三度建った歴史がある。家康による最初の天守(慶長度天守)、二代将軍秀忠による二度目の天守(元和度天守)、三代将軍家光による三度目の天守(寛永度天守)だ。いずれも日本一大きい天守であったことは間違いない。

二度目、三度目の天守は建て替えられたとされているが、三度目の天守は明暦3年(1657)の大火で焼け落ちてしまう。江戸の大半を焼いたいわゆる振袖火事である。それでは四度目の天守を建てようと、新しく石垣「天守台」を造成した。しかし、その上に天守が建つことはなかった。財政的に再建の余裕はなかったのである。正徳年間(1711~1716)にも天守再建が新井白石によって計画(上部絵図参照)されたが、彼の失脚によって実現しなかった。
江戸時代、江戸城に天守があったのはわずか最初の50年間である。よくTVドラマで八代将軍吉宗が聳え立つ天守を背景に馬で駆け抜けるシーンが映し出される。当時天守があるはずもなく苦しい設定ではあるが、時代劇としての演出上仕方ないのだろう。

天守台

この天守台は今も皇居東御苑にあり、私たちは上ることができる。皇居東御苑は皇居の東側に位置し、江戸城の本丸、二の丸、三の丸があった場所にあたる。昭和43年(1968)に皇居附属庭園として公開された。入り口は、大手門、平川門、北桔橋門(きたはねばしもん)の3箇所。皇居前広場には誰でも行ったことがあると思うが、皇居東御苑には入ったことがないという人が多い。あまり知られていないのかもしれない。
本丸跡には見所がたくさんある。天守台をはじめ、見事な石垣の「中雀門跡(ちゅうじゃくもんあと)」、現存する三重櫓「富士見櫓(ふじみやぐら)」、忠臣蔵でおなじみの「松の大廊下跡」、広い芝生となっている「本丸大芝生」や「大奥跡」など。

一度皇居東御苑を訪れたならば、東京の真ん中にこんな場所が残されていたことに驚くだろう。歴史とともに豊かな自然を保ちながら私たちを迎えてくれる。本丸は高台にあり「展望台」からの大手町の眺めもいい。芝生でゆっくりしている人も多い。のんびりするには絶好のスポットだ。
それはそれでいいのだが、やはり足りないものがある。ここに来ると“江戸城天守が再建されれば、いいだろうなあ”といつも思うのである。最初に江戸城天守を建てた徳川家康(1543-1616)が没してから400年の歳月が流れた。家康は天守が聳えていない天守台を見てどう思うだろう。天守再建(四度目の天守)の日が待ち遠しい。

文 江戸散策家/高橋達郎

ちょっと江戸知識「コラム江戸」

二の丸庭園

二の丸池のヒレナガニシキゴイ。

江戸城二の丸は本丸の東側に位置し、本丸から汐見坂(しおみざか)を下った所にある。三代将軍家光の時代、本丸や西の丸の造営がほぼ完成した頃のことだ。当初は将軍の別邸として造られ、将軍嗣子(世継ぎ)の御殿が建てられた場所である。

二の丸庭園の二の丸池には、珍しい鯉が泳いでいる。「ヒレナガニシキゴイ」、英語名「Varicolored Carp with Long Fin」。見た目が普通の鯉と明らかに違っているのは、長い鰭(ひれ)と尾鰭である。説明板には「今上陛下の御発案により、インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配して生まれました」とある。平成27年、皇后さまは皇太子さまや秋篠宮ご夫妻とともにインドネシア大統領夫妻を皇居東御苑にご案内し、このゆかりある鯉を紹介している。ヒレナガニシキゴイは、国際親善の鯉といえそうだ。

二の丸の造営には小堀遠州(こぼりえんしゅう)が関わったとされる。遠州は江戸前期の大名(備中松山藩主)で、茶人や作庭家としても活躍した人物だ。二の丸御殿もまた度重なる火事で焼失・再建を繰り返した。
現在ある二の丸庭園は、荒廃した庭園を九代将軍家重の時代の庭園図面を参考に回遊式日本庭園が復元されたものという。
庭園の周囲には武蔵野の面影をもつ雑木林が整備されている。コナラ、クヌギなどの落葉樹の林が理想的なかたちで保たれている。モミジやハゼノキなど種類も多い。四季折々の草花を楽しませてくれる二の丸庭園。5月下旬~6月上旬、菖蒲田のハナショウブが開花する時季は特に美しい。庭園内は高低差もあまりないので歩きやすい。自然を楽しみながら散策しよう。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎

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